自己は存在しない


“自分はなぜここにあるのか”と考える事自体が自分が存在する証明である
我思う、ゆえにあり)

「自分は考える。」
「自分は、あの人と違う。」
このように私という言葉をよく使います。

これらは自己と言われますが
自己とは記憶の集まりです。

脳や神経とは行って帰ってくる連絡通路

脳科学的には、脳とは神経であり
神経が密接に近いため、
連係することもあれば、刷り込まれることもあるし
勘違いすることもあれば、記憶になることもあります。それぐらい、脳の反応とは
あやふな連携なのです。
逆にあやふやであるため、生まれてから変成することが
可能になります。

脳に来るシグナルは主に五感です。
その五感にプラスして、記憶というものがあります。
それは過去の五感に反応した感情の連鎖です。

仏教の用語ではそれを識(しき)といいます。
この五識はおそらく五感を通じて世界とつながる接点です。
識を通じて、世の中の空(くう)に触れ、色(しき)を理解します。
空即是色です。

自己とは

このように認識するので
今まで体験してきた内容と
その時の感情の積み重ねが自己になります。

赤ん坊のころは、あまり記憶がないため反応も原始的なものばかりですが
例えば2歳になると、ある程度あれもこれも反発して
親にゆだねなくなるのは、その記憶が溜まってくるからです。
自己があるように見えるのは、
過去の経験から感情的にあれもこれもしたくなるからだと思います。
(いわゆる三つ子の魂百までという言葉があるように
前頭前野(礼儀)はそれから3歳ぐらいまでに鍛えます。)

また自分一人で考え事をしてしまうときがあります。
実は何かわからないことがあったときに
考えても思いつきません。
それは、記憶はあなたの経験でしかないからです。犬も歩けば棒に当たる。というように
色々世界とかかわることで気づけなかった大事なことに
触れる機会が増えるのです。

デカルトは考えている狭い範囲内でしか見ていないため
自分の存在があると勘違いしています。
ちょっと難しい言い方になりますが
不確定性原理があるように、
考えた瞬間切り離されるような状況になって
思考の中のみの存在になってしまいます。

勘というのは言語化されていなくても
小さい気づきと体験の集合です。
ベテランの経験者が重要だと気づけても
初心者は勘が働きません。

記憶や性格も同じ

同じように
性格や記憶というのは
経験とその時の感情の集合です。

逆に言えば、行動して違う感情が起これば
性格は変わります。

もしあなたが忘れたり、解釈を変えれば
記憶も変わります。
つまりあなたがどう解釈するかで
記憶も性格も変えられます

記憶を思い出さなかったら記憶という過去もなくなります。
過去や未来というのは、今という流れと一直線上にあると
思っている人も多いかもしれませんが
すべて今考えているあなたの記憶にすぎません。

判断する前に自分のいい反応悪い反応区別なく認識すること

体験を忘れてもいいし、体験による反応を変えてもいいのです。
いつも怒っていた時、少しずつ感情の方向を変えることで
EQの力がついてきます。いわゆる大人になっていきます。

そのため仏教では、今に生きて自分の感情を素直に理解しなさいと
説くことが多いです。

自分の感情のうち最初の直接の反応である部分は動物的反応であるため
コントロールできませんが
そのあとは、自分の状態に気づけるのでコントロール可能です。

つまり怒ること自体はそれほど悪くはなく自然なことです。
逆に怒り続けることが問題なのです。

ちなみに、このような内部に流れる反応を追って気づけるようになって
自分との対話をしていくと、逆に他人のことも見えてくるようになります。

一部の感情や性格も同じようにできています。
例えば犬が苦手な子供がいた時には
犬と楽しむ映像を見せることで
犬の苦手な意識がなくなります。

人と遊ぶのが苦手な子には、
独りぼっちだった子供が
積極的に友達とかかわり
楽しく過ごしていく姿を見せると
変わっていきます。

逆に暴力的な内容を
見せてばかりいると
統計的にも証明されているように
暴力行為が増します。

自分でいることが
好きならそれでいいかもしれません。

自分を変えたい場合は、
今まで経験してきた内容を受け止め
なりたい自分はどう経験し、どう行動するのか
一歩でもそこに近づいて、
体験を上塗りしていきます。
新しい体験のほうの割合が多くなって来れば
それが自己の中心になっていきます。

補足:今しかない

つまり今の中にあなたの頭の反応があり、
あなたの頭の中の反応の中に、自分や自己や過去があるのです。

だから「今しかない」のです。
本来は今をベースに考えるべきですが
ニュートン法のように時間を軸に考える癖が
多くの人についてしまっています。

時間とは、記憶と感覚の差異です。
記憶がなくなれば時間は感じません。
今に一生懸命過ごしていれば、時間は感じません。
記憶に生きれば時間を感じます。

歴史も生々しくリアルに感じれば
身近ですが
他人事のように見れば、まったく遠い存在になります。

実際英語でも、遠い存在を表現するときや、現在と違うという意味で仮定するときや
強制の意味を持たせたくない礼儀を示すときは、過去形を使います。時間とはこの距離間であり
距離感を感じることにより時間を感じます。

マインドフルネスという言葉があるようですが
東洋の人から見れば、それは知っていることで
あたりまえのことです。

参考文献

 

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