言葉の限界と体験による成長の大事さ


感触がとても大事。

百聞に一見にしかずと言うのは、
聞くことが重要ではないというのではなく、
何事も自分で体験しろということ。

畳の上の水練という言葉があるように、
理論だけじゃなく体感が成長や実践のポイントだ。

言葉というのは、
前に言ったように
過去の経験(または想像)が元になっている。
その積み重ねが、文化なり伝統なりで現れる。

長く現場でなく伝え聞くと、
文化の本質がずれてくるときもある。
特に日本語は表面的で、意味がよく変わるから
明治の文学でさえ読みづらい。

言葉だけで全て表現できると思うのは間違いだし
なんでも言葉で伝えてもらおうとするのは間違い。

ただ、言葉や図などでしか伝える方法がないだけ。
コミュニケーションと言う意味では、言葉はすごく大事。
一緒に行動したりするには重要だ。

だが、成長には体験が大事だ。

まずは、現地に行く。
そして見て感じで嗅いで触って、聞く。

それを伝えようとしても、5%も言葉で表せられなことも多いし
言わなくても、行った当の本人はいろんなことがわかる。

新しいことなんかなおさら。

体験が重要。

ビジネスの基本も
現地に行くことが重要。

それは、サービスを提供している瞬間や
使っている瞬間を体験できるからだ。

多くの経営者は、現場を大事にするし、
ハウステンボスの再建した澤田さん、
松下の松下さん、JALの稲盛さん、
日産のゴーンさんなど
必ず現場を回ろうとする。
(回ればいいってもんじゃないですよ。
自分たちのビジネスのサービスがどう提供されるのか
どう作られるのかを実際に見に行くことが重要です。
だから忙しい中行くので、
そういうとき現地で体験できないくらい
接待することは普通嫌われます。)

チームラボの猪子さんも、
言葉では伝えられない、体験してもらわないと
という立場の人だ。

仏教でも密教があるのは、
言葉で伝えることに限界があるからなのかもしれない。

東郷平八郎なども、
安全な弾が飛んでくる現場で
状況を見て判断を下していたともいわれている。

老子の中にも、道の本質とは深くわからないもの、
頭で理科するのではなく、感じ取れと言っています。

老子/第十四章 賛玄
http://a5allion.web.fc2.com/1roushi/r/014.html
目をすえて見ても何も見えないから、「夷」―色が無いという。 耳を澄まして聴いても何も聞えないから、「希」―声が無いという。 手で打ってみても何も手ごたえがないから、「微」―形が無いという。 だが、この三つの言葉では、まだその正体が既定しつくされない。 だから、この三つの言葉を混ぜあわせて一つにした存在なのだ。 その上部は明らかでなく、その下部は暗くない。 だだっぴろくて名づけようがなく、 物の世界を超えたところに立ち返っている。 これを状(かたち)なき状、物の次元を超えた象(もの)というのだ。 これを「惚恍」―ぼんやりとして定かならぬものというのだ。 前から見ても、その顔が見えるわけでなく、後から見ても、 その尻が見えるわけではない。 太古からの真理を握りしめて、今も眼前の万象を主宰している。 歴史と時間の始原を知ることのできるもの、 それを道の本質とよぶのだ。

 

ドラッカー名言録65
http://www.portem.co.jp/meigen65.htm
「軍隊の指揮者は、現場からのリポートに依存することなく、自分で現場へ出かけて行き、自分の目でみる」

 

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