坂本龍馬と中岡慎太郎がともに襲われたと思わない理由


数々の説がある龍馬暗殺
今回、その事件の違和感から
発想を膨らませてみました。

感じた違和感

近江屋(おうみや)事件の現場は
木造建てですね。

自分が子供の頃も木造一軒家だったので
よく分かるのですが、

下から入ってきたときに、刀を取る前にやられるか?
というところが一番の違和感です。

玄関から部屋まで
階段をすばやくあがってこようとしても
7,8秒かかります。

その時の音たるや、大きい音のはず。
寺田屋事件のそばであり
数日前に 伊東 甲子太郎(いとう かしたろう:新撰組だが倒幕よりの思想)から
新撰組から狙われていることをも、聞いていたので油断はしていないはず。

つまり刀をそばにおいていた。

いくら座っていても、音がすれば、まず刀に手をやります。
刀の台座がそばにあったはずで
それにとどくまで2秒もかかるとは思えず。
5,6秒あれば体勢は整うはずです。

体勢が整う前に、指などを切られているのであれば
もっと近くに龍馬を襲った人がいると思います。

銃というのは、斬られる直前に一発撃てるだけであり
複数で来られたらひとたまりもありません。

狭い屋内は少人数のほうが有利です。
そのため、普通は外で闇夜に乗じて襲うか
通りで襲います(実際龍馬の動き次第で難しいかもしれませんが)。

一般にドラマやゲームや漫画みたいに
一人で腕の立つ二人を相手にするのは
ほぼ無理があります。

※ちなみに北辰一刀流(ほくしんいっとうりゅう)長刀兵法目録は薙刀ですが
千葉道場の筆頭でも合ったので剣術の達人は変わりないようです。

もう一つの疑問点は、
近江屋にいることがバレていて、
部屋もばれているということ。

実は、近江屋の主人は
隠し部屋にかくまっていたということが言われています。
突入しても、部屋を突き止められない可能性も高いのです。

もし敵対する京都見廻組(会津藩の京都守護職関連)が
見つけるのは至難の業ですし、新撰組も同様に無理があります。

まだ武士の時代です。
下級武士の見廻組であれば、プライドから
十津川郷士で郷士の出であることや、嘘をつくとは思えません。
(京都守護職が、薩摩藩関連を警戒していたのは確かだが当日の乱に
直接関わったかは不明)
京都守護職としてなら、吉田松陰や安政の大獄のようにしょっぴけば良い話です。
ゲリラ戦をするのは、役職のない下級の郷士などの次男三男などでしょう。

十津川郷士と聞いたのは誰で
誰が伝えたのかよくわからないです。
聞いた力士は死んでしまってますし。
(力士が案内すれば穏やかについていくはずです
場所がわかれば力士は不要で斬られる可能性は高いです。)

一緒に入り口まで行って
中岡たちに伝えたのでしょうか?
夜中(夜9時?)に普通の仲の良い人が
突然話し合いに来るわけありません。
中岡が十津川郷士があとから来るから通してくれと
行ったのでしょうか?

狭い屋内に、剣の達人?が二人もいて
いくら多人数で襲っても、
命がかかっている状況で
たかだか木造2階建てから逃げる暇もなく
すぐに頭を割られるとは思えません。
(龍馬は戦う必要はないと常に認識していたともいます)

自分の推測では、
まず、中岡が龍馬を隠し部屋から外に出しました。
この日は龍馬の誕生日だったと言われています。
(まあ誕生日を祝う風習があったかは知りませんが)

タイミングを見計らって、薩摩藩や土佐の下級武士が入ってきたと同時に
中岡が場所を知らせます。

それと同時に、龍馬に斬りかかる

大きな物音に対し、龍馬は「ほたえな!(土佐弁で「騒ぐな」の意)」と言ったのは
中岡がここだと言ったのが原因かもしれません。
力士が案内したのかもしれません。

中岡と龍馬で切合い、
致命傷を中岡は負ったのかもしれません。

ちなみに、人って腸が飛び出してもすぐ死にませんが
結局数日から1週間で、雑菌などにより切り口から
死んでしまうそうです。

そのため刀の切り傷が軽傷でも
当時はだいたい致命傷になったようです。

思想の違いと動機

中岡や薩摩藩は 1866年には、武力倒幕派です。
一方坂本龍馬は大政奉還 (慶喜の会心の一撃)を成功させていました。

権力が欲しく、倒幕派になった薩摩や、その他の長州や土佐の
下級の若い乱暴者からしたら
龍馬が憎たらしかったに違いありません。

当時の状況

その前の第一次征伐で大敗し、長州の上の権力者関連は責任取って
自害したりし、求心力が弱まっていました。

そこへヨーロッパから仕入れた最新武器と過激な粛清で
京都と同じように長州の治安が乱れているところ
下級武士の若い過激派が実力を握っていました。

第二次長州征伐では、連戦連勝です。
自惚れるには絶好の条件です。

時間軸

1862年 9月14日 生麦事件(薩摩がイギリスにこてんぱんにやられる)
1863年 5月         下関事件(長州が米仏蘭にこてんぱんにやられる)
1863年 9月30日 八月十八日の政変(過激派が人切りを四六時中している中、会津藩や薩摩藩が新撰組がその本丸とみられる公家や長州を追い出した政変)
(1864年 7月8日 池田屋事件 新撰組)
1864年  8月20日 禁門の変(攘夷派の長州がなぜか天皇をなきものにしようと試みた、逆恨みの戦争)
1865年 11月 兵庫開港(天皇のお住いのそばでもあるが、開港の勅許が得られたタイミング)

1866年 3月7日 薩長同盟? (島津との誓約の実態は1867年と言われる。薩摩の方針が180度なぜか変わってしまったタイミング)
1866年  第二次長州征伐、8月29日徳川家茂が大阪で薨去(こうきょ,病死)
1866年 3月9日 寺田屋事件(薩摩同士の内輪もめではなく、深夜2時頃何故かお龍がオフロに入っていて伏見奉行から龍馬が襲われ九死に一生を得た方)
1867年 1月10日 徳川慶喜征夷大将軍へ  (旧暦:8月 20日 宗家継承)
1867年 1月30日 孝明天皇崩御
1867年11月9日 大政奉還

1867年12月10日  近江屋事件
1868年 1月27日  戊辰戦争
1868年10月23日  明治元年
1868年  5月3日 江戸城開場
1877年 西南戦争

 

中岡慎太郎は2日も生き残り、第一次伊藤内閣の農商務大臣になった
武道倒幕派の谷干城(たに たてき)に話しています。

過激で喧嘩っ早い薩長や 谷がいる土佐が
龍馬殺害の犯人をあまり追求せず、内閣に座っていたのはなぜでしょうか?

谷干城は生涯、近江屋事件は新選組の仕業だと言い続けたらしいですが
戊辰戦争で新撰組はなくなっています。
その後もあえて言い続ける必要が合ったのでしょうか?

土佐閥を代表する子爵・谷干城は生涯、近江屋事件は新選組の仕業だと言い続けた。
今井信郎が「龍馬を暗殺したのは俺だ」と言ったが、谷は、それを聞き及ぶと「お前ごとき売名の徒に坂本さんが斬られるものか」と逆に厳しく非難したという。

谷干城 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7%E5%B9%B2%E5%9F%8E

新選組局長の近藤勇は負け試合でもブレずに何度でも戦ったので、
死を覚悟したとき、暗殺を否定したことに嘘はないだろうとおもいます。

薩摩と龍馬は心から信じあっていたのでしょうか?

あくまで一説ですけどね。

 

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