心で見る血の通った日本の歴史すとーりー~(10) 動き出した明治政府~


(9)大義がなくなっていった国

権力基盤の確保

日本は清や朝鮮とともに
アジアを守りロシアに立ち向かうことを
積極に進めていきます。

朝鮮

清は征台の役のあと、朝鮮に開化を薦め一定の成果等ありましたが
朝鮮は清に従う穏健派は主流でした。

大院君(こうせい だいいんくん)は鎖国(開化反対)派で、
フランスやアメリカを攻撃したように
日本を襲撃した事件(1882)も起こした一因とみられています。
その後日本は一部軍を駐留させるようになります。

横領していた書院などを罰し、それに反対した儒者を武力弾圧するなどして
次第に閔妃(びんぴ)派が大きくなってきます。

次男の高宗(こうそう)は鉱山県や森林伐採権をロシアに売るなどして
国を切り売りして、栄華を楽しんでいました。

清がフランスと戦っている頃、その隙をついて
朝鮮の金 玉均(キム・オッキュン)は閔氏(びんし)に対して
クーデターを起こしたが失敗しました(1884 甲申事変)。

逃れた金 玉均を頭山満(とうやまみつる)はかくまっていましたが
上海に話に行ったときに暗殺され、今でも青山墓地に埋葬されています。

3日で敗れ、惨殺された結果を受け、金 玉均を支えていた福沢諭吉も、
開化政策について挫折と失望感を感じました。
そして、朝鮮はイギリスやフランスに取られたままのほうが
いいのではないかというような失望ともとれる内容を掲載しようとしました。
(ちなみに、60年以上もたった後1950年の戦後、
脱亜論/脱亜入欧などという言葉が広まりました)

そののちも、大院君と閔妃の争いは続き
内政は混乱し始めました。

そののち東学党が立ち上がって
日清両軍が軍を派兵し、日清戦争につながっていきます。

その時も、ロシアは西への進出が難しいことがわかると
朝鮮獲得に名乗りを上げつつありました。
そのためイギリスは天津条約を是とせず、
ロシアを警戒し 現韓国の南にある小さな島巨大島(こむど)を制圧し
ロシアも、北朝鮮の東の小さな島を占領したりと
牽制が続いています。

1895年閔妃は、ロシアと組んでクーデターに成功します。

 

中国

親日派の李鴻章などの働きもあったのか
甲信事変後の天津条約(1895)では、お互いに引いたものの
清は長崎事件を起こしたり、
北洋艦隊のを日本に見せつけたりと
日本を甘く見ていました。
このように中国も朝鮮も
ロシアに対する準備はしないことが確実であることがわかり
日本は富国強兵を加速していきました。

日本の文化的特性もあって、
富国強兵が進んでいきます。

天皇も資材を投じて寄付し
日本はボロボロの戦艦を
フランスなどから購入します。

この取りに行くとき、難破したトルコ人を
村人が誠心誠意助けて、本国まで送りました。
トルコ人が親密な大きな理由の一つだと思います。

後のイラン・イラク戦争が始まって
JAL/ANAが動かなくなって
取り残された日本人をタイムリミットギリギリで
間一髪助けてくれたのは
トルコの航空会社です。

日清戦争後

日清戦争後、下関条約で得たリャオトン半島を
独露仏(三国干渉)で、日本に圧力をかけ奪い返します。

清はそのあと、西欧各国に進出を許し
賠償金もあり内政に苦しみました。

義和団が勢いを増し、西太后はこれを利用し
西欧列強に宣戦布告(1900)します。

ロシアは鎮圧した後も満州に兵を残し
ロシアは日本を甘く見て居続けました。

危機を感じた日本は、イギリスと
日英同盟(1902) 同盟を組むことができました。

 

日本の連勝

当時世界から、軍事視察や指導に、アメリカ、フランス、イギリスから
軍人が来ており、日本の勤勉さや統率の高さに
目を見張っていたのかもしれません。

だから、日本は、リャオトン半島などは取り返されたものの
ロシアと戦う前に日英同盟を結ぶことができました。

さらに、清の巨大戦艦に打ち勝ち、
ロシアの攻撃にも勝利を得ることができました。

バルチック艦隊の寄港時に
イギリス、トルコは支援せず
くたびらせた要因にもなっています。

また高橋是清はヨーロッパで国債を発行したので
ヨーロッパでは圧倒的優位のロシアを
支援しなかったのかもしれません。

このように幸か不幸か、日本は清だけでなく
日露戦争にも辛勝し、
世界から一目を置かれるようになります。

また、戦争の舞台となった当時の東北・満州地方(今の中国の領土)は
万里の長城の外側で、
金民族ではなく、漢民族の清が侵略した後、
ロシアが侵略した領土です。

太平洋戦争後は、ソ連が満州を保持していました。

戦争をあおったメディアと乗った国民

日本の戦意を維持するために、
メディアと明治政府は
勝利のための逸話を数多く流すことになります。

新聞社は、読者が増えるためどんどん好戦論を発表し
国民は苦しくても勝つのが妥当だと認識してしまいました。
(その裏ではどれだけ親が涙を流したことか)

狂露病(きょうろびょう)と言われていたころのような
ロシアの恐怖はほぼ消え去りました。

このころから強気の日本国民が熟成されます。

日本が勝ったことにより、世界での国債も発行しやすくなり
軍備拡大の流れも強くなっていきます。

ロシアに対する日本の勝利

これは、アジアの各国に勇気を与え、
そののちインド、トルコ、フィリピン、インドシナは独立に向かい
朝鮮や中国から若い留学生がたくさん来ます。

インドの初代大統領やガンジー、ビルマの初代首相も
この勝利に勇気づけられたと語っています。

中共の毛沢東時代の周恩来首相や蒋介石
辛亥革命の孫文もそのうちの一人です。
新渡戸稲造の武士道も話題になります。

当時世界地図を見ると日本、満州以外、
一部の内陸(サウジ、モンゴル)付近以外は
アメリカもアフリカもアジアも西欧諸国が握っていました。

西欧諸国の進出は、負けるまで止まらないのです。

朝鮮半島では、日韓併合もなされ当時活動家であった
李承晩(日本の敗戦後に李承晩ラインを主張した、初代韓国大統領)は
投獄されていました。
その後のたがの外れた日本は、
節制のない拡大と反発の波に飲み込まれていきます。

それは、また次回に

(11) 分裂しだした日本

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