心で見る血の通った日本の歴史すとーりー~(11) 分裂しだした日本~


(10) 動き出した明治政府

日露戦争後の不安定な状況

日露戦争後
台湾や遼東(リャオトン/りょうとう)半島以外にも
日韓併合や、満州事変
そして第一次世界大戦でも、日本は領地を広げ
対ロシア対策のための
富国強兵策は続きました。

賠償金が取れないことへの
日本国民の怒りを抑えられなかったということもあります。

また、そのころ軍部は、陸と海で軍事費を取り合い
欧米への借金もあり、
国民は厳しい生活が続いていました。

長州の勢いも衰え、
さらに日本は分裂していきます。
力で抑えたものは、
力がなくなってきたときに反発されます。

日米関係の悪化

ロシアから、満州と満州鉄道
アメリカからフィリピン領土を認める代わり
日本は韓国の領土主張の支援を得ます。

アメリカは、バルチック艦隊を破った日本に恐怖します。
利益について 鉄道王を寄越して交渉・奪還しようとしたものの、
国民の血税を考慮して、一部の門戸を解放したものの
日本は拒否しました。

日露戦争の交渉の立役者である親日派であるルーズベルトはもういません。
タフトは、オレンジ計画(1906)を発動させたり、
カリフォルニアの排日運動を刺激させました。

白船(1907)で日本を威嚇したが、日本は歓迎することで
敵意はそこまでないことを示し、帰ってもらいました。

カリフォルニア大地震、関東大震災で双方で
寄付金を送り合ったものの
排日移民法(1924)が通ってしまいました。
多くの人が日米戦争を予感したと言っています。

日朝

日清戦争後、大韓帝国として独立した(1897)高宗は
ハーグ密使事件(1907)を起こしました。
これは日本が適切に管理できていないことを言っているようなものなので
併合反対派は、勢いを失います。
当初、お金がかかる、皇国民の質が変わる、外交上同意が得られない可能性があったものの
併合の方針で進み、安重根の暗殺も影響なく日韓併合(1911)を早めました。

以後、日本統治時代人口は倍増し、ハングル識字率も6%から 23%へ
急増しています。

なぜ併合したのか、方向性や理由は
イマイチ弱いと思いますが。

どの世界でも、平和になると自分たちの存在が消えてしまうので
平和に反対する人たちはいます。

安重根は怒りに動かされるタイプなのか、
突っ込んでいき、周辺の人にも念のため発射して暗殺を結果的に成功させました。
怒りの理由ははっきりしませんが、日韓双方の君主制に敬意を表し
日中韓の独立を目指していますが
殺害動機の15項目を見る限り、深く状況を把握しているとはいいがたく
伊藤博文ただ一人がそそのかしているという理由を信じたのだと思います。

日中

その隙をついて孫文は何度目かの革命で
辛亥革命(1911)を成功させましたが、
我慢が弱く、勢いに任せておろそかになっていたため
日本の注意を聞かず袁世凱に譲ることになります。
袁世凱は反乱鎮圧のふりをして情勢を眺め、逆に革命派につきます。
革命派についた後は議院内閣制を目指し人気のあった宋教仁を暗殺して
初代大総統につきました。

第一次世界大戦中の日本の対華21カ条要求(1915)もあり
学校教育等改革をするも人気を得られず
病死しました。

そののち蒋介石が北伐を行い、張作霖を爆殺させるなどし
北京を制圧して、次の大総統につきます(1928)。
しかし、内部にはいろいろな軍閥勢力が残っており
中国共産党もその一つです。

恐慌

第一次世界大戦好況に沸いた日本も、反動で恐慌に陥りました。
金輸出禁止(1920)が発動され、日本の輸出産業は急速にしぼみます。
さらに関東大震災(1923)もあり、日本は財務に強い体制づくりを進め
自信を得ました。

そのころ、第一次世界大戦で、発行した国債の返済で
アメリカ以外は汲々としています。
ドイツも厳しい賠償金でハイパーインフレを経験しました。
輸出する余裕がないため、金が流出してきます。

金融業界は、このタイミングで貨幣をある程度
手元に戻し次の策に出ます。
市場の通貨供給量を 1/10?にまで落とす作戦です。
通貨共有量を落とすことで、経済がうまく回らなくなり
失業者が出て、株価にもその気配が出てきました。

いわゆる世界恐慌です(1929)。
戦争していなかったアメリカは、生産力もあり
むしろ国債を買っていた側なので
普通に考えても、戦後のこの微妙なタイミングに
恐慌が起こることはありえません

実際、日本でさえもアメリカは一番好況だと認識していたぐらいですから。

不況になって、つぶれかける会社がたくさん出ました。
中小企業ももちろん、準備不足の会社や、拡大路線をとっていた会社も
ピンチに陥ります。

そこで、公開されている株式会社を含めて
暴落された安値で買いたたきます。

これにより、主要な会社を株式という形で手に入れることが
できるようになります。

当時の日本は、世界が不況にもかかわらず生糸を輸出して
リカバリーを図り、財務体質の改善も計りますが、
もともと不況なので暴落から回復するわけがありません。
生糸は安いままです。

また、金禁輸の原因で円安になったと思われていますが
上記が原因ですので輸出は回復しませんし、
日本はドルに対して高かったようですが
それでも相対的に安かったのか、
他の国から日本の金を求めて殺到します。

慌てて高橋是清(これきよ)は、1931年金解禁を止め、
軍拡によるインフレ政策にかじを切ります。
金が買えない円は暴落し、日本以外の国は
植民地があるためブロック経済を敷いて対抗し
金の解禁や経済圏の追い出しにより圧力をかけます。

ドイツと日本は、ブロック経済に苦しめられ
一層満州や朝鮮の発展が重要になってきます。

2度のデフォルトを発生させたドイツでは
国民の期待を受け、1933年 ヒトラーが首相につきます。

日本ではインフレ発生後、二・二六事件で是清は
凶刃に倒れます(1936)。首謀した青年の北一輝らは、天皇のためにしたつもりだしたが
世間を騒がし、天皇の怒りに触れたことを悟ると投降し、処刑されました。

太平洋戦争まで

日中の関係の変化

1926年 無賃乗車対策したイギリス船を逆恨みして拿捕した万県(ばんけん)事件
北伐中の南軍に敵意を無いことを示しましたが、各国領事館へ凌辱・略奪をした1回目の南京事件、漢口(かんこう)事件(1927)。

これはソ連により、イギリスと南軍を貶めるための共産党の計画であることがわかり、
さらに北京の捜索で確実が高いことがわかり、 アルコス事件に発展しました。
その後英国とソ連の国交は断絶しました。
蒋介石は上海クーデターを起こし、共産党幹部を処刑しました。

中国は、統制が効かず兵站を考えないため、
街を略奪することで軍隊を維持していた。
そのため軍の通り道の町では日常茶飯事のことであり
中国軍が来ると町民や村民は逃げるのが常でした。

幣原 喜重郎(しではら きじゅうろう)は刺激しないように対応したため
これ以降、イギリスなどと違って仕返しされないため
邦人に対する対応がもっと野蛮になっていきます。

北伐が進軍すると、日本は第一次山東出兵をしますが
蒋介石は張作霖に敗れ下野したため事なきを得ます。

1928年にまた惨殺事件が起こります(済南事件:日露戦争で獲得した北京のそばのでっぱった部分の付け根に位置する)。
この時も、蒋介石の南軍と日本は粘り強く対処し停戦に持ち込めました。

張作霖は野心が強く進出を狙っていました。
満州は治安が悪化し絶え間なく邦人が巻き込まれ殺害されたため
進軍し、結果的に張作霖は関東軍の支援の下活動していました。
しかし徐々に西欧とも組もうとしましたが
国民党が組むようになり、張は孤立していきます。

関東軍は現場での邦人殺害などを受け、大本営に打診しても
明確な解決策が得られないため、苛立ちがあったかもしれません。

1928年 6月1日北京に入城し、6月4日北伐に敗れて帰ってきた張作霖が死亡しました。
(20編成に 上から橋を落とし的確に潰すという離れ業です)

父の後を引き継いだ張学良はソ連と戦争し敗戦し31年ごろ満州事変を
静観し、アヘン中毒の療養からヨーロッパへ視察に行きます。

視察から帰ると蒋介石に発砲し拉致すると西安事件(1936)を起こし
以後蒋介石とともに、共産党と連合を組みます。

張学良は経済競争政策等を行い、
柳条湖事件(1931)に発展し満州事変(1931)が発生しました。
リットン調査団は、鉄道などの権益は認めるが、日中双方の主張は全面的に認められず
早期解決を望むと報告しました。
しかし松岡洋右(ようすけ)は国際的な満州国承認にこだわり、
国際連盟を脱退しました。
ちなみにそののち、ドイツ、イタリア、ブラジルなど南米各国も脱退し、
ソ連も除名されています。

これは、昭和天皇や中国だけでなく、アメリカやソ連や英国を刺激していきます。
蒋介石と張学良は国内内線を優先したのか、とくに行動は起こしていません。

このころ1931年  毛沢東が中華ソビエト共和国を瑞金(ずいきん:台湾のそばの福建省や香港や広州の内陸に位置)で設立しています。
ソビエトは労働者や兵士などの評議会という意味。

日中抗争

盧溝橋事件(1937年7月7日)が起こった時も、停戦交渉を完遂することができ、
事なきを得ました。
(盧溝橋は北京の南西)

しかし同年 7月13日14日と事件が起こり
26日にも廊防(ろうぼう)事件/広安門事件が
29日にも残虐な通州事件が起こります。

上海においても 1935年,36年,37年と水平事件が起こり
上海事変が発生します。
上海は中国を上下に二分する黄河の河口付近。

1937年8月9日夕刻 大山事件で一触即発の中、
蒋介石は 8月12日 日本人租界地域を包囲し、布陣しました。
13日国民党軍が総攻撃を開始し、日本も爆撃依頼を行います。
9月まで1万に以上の死傷者を出しながら苦戦しますが
日本の上海派遣軍は10倍もの軍勢を撃退すると
国民党軍は、焦土作戦と奸軍狩りで死体を築いていきます。
返す刀で12月17日には南京も陥落させ松井岩根(いわね)が入城しています。

37年11月から続いていた トラウトマン作戦は
国民党の軍事顧問をしていたドイツが仲介になっていますが
戦争を仕掛け負けた側の蒋介石も、日本ももう一歩譲歩できず破談します。

抗日が高まったとありますが、排外運動が高まっており
日本以外にも無差別に攻撃がなされています。

また抗日でまとまったのではなく、
自分たちの存在意義を出し、まとまるときに言った内容のうち
排外運動だけが特に広まりやすく心をつかんだとみる必要もあります。
節制のない拡大と反発の波に飲み込まれていきます。

 

それは、また次回に

(12) 戦略なき軽率な戦争

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