心で見る血の通った日本の歴史すとーりー~(12) 戦略なき軽率な戦争~


(11) 分裂しだした日本

太平洋戦争

中国ゲリラ化

その後も蒋介石は徹底抗戦を主張した。

終結に向かうと思っていた近衛文麿はこれを受けて「国民政府を対手とせず」との声明を発表しました。続いて国家総動員法を成立させ、東亜新秩序を主張します。

上海事変で置くに逃げた蒋介石は負えないので、南下し、国民政府和平派の代表格である汪兆銘を首班とする南京国民党政府(汪兆銘政権)を日本は中国の政権として承認します。

世界の開戦への緊張の高まり

29年  世界恐慌・ブロック経済
32年 ヒットラー就任
34年 ドイツはポーランド不可侵条約破棄
35年 イタリアは エチオピアへ侵攻
36年 ドイツが ラインラントへ進駐

イギリス・フランスの宥和(ゆうわ)政策が裏目に出て
ドイツはイギリスフランスは攻撃してこないことを
リスクを取って確認しました。

アメリカ大統領のJFKは学生の頃このことを勉強していたため
第3次世界大戦の前触れであるキューバ危機を
強い態度で臨み、回避することに成功しました。
39年 9月ドイツが ソ連と 10月ポーランド陥落

40年 5月オランダ降伏、6月フランス降伏、イタリア参戦
9月 日独伊三国同盟

41年 4月 日ソ中立条約
6月  独ソ不可侵条約破棄、枢軸国にルーマニア、ハンガリーも加わる

ソ連の牽制

日本とすれば、イギリスと組んでソ連を挟むか
ソ連と直接組んで北方の憂いをなくすかの方法があります。
イギリスと組むと、かなりの距離を両面作戦でソ連は戦うことになります。

そして過去に日英同盟もしており、
親日家もいるうえ、中国にイギリスの兵はいるので
イギリスとそのまま組んでいたほうが良かった面もあると思います。

当時日本はノモンハン事件で大規模にソ連と戦います(1939年 5月~9月)。

敵の戦力を見誤り、肉弾戦に戦車に挑みながら互角の戦いをし
ソ連の要求を呑む形で停戦します。その時領土を渡す代わりに
同じ広さのの内モンゴルの範囲を日本は支配しました。
それが今でも、国境問題となっているそうです。

近衛内閣はナチス・ドイツやイタリア王国と共に
三国防共協定・三国同盟を結ぶ選択しを選びました。

これは、独ソ不可侵条約を受け、日独伊三国同盟から、4国同盟を目指した戦略です。
しかしドイツはバルカン半島(地中海東のギリシャ、ブルガリア、ユーゴ付近)を目指したため
それに対応するため、国ではなく2国間の不可侵条約とし、
日ソ不可侵(1941年4月)を結びます。
しかし、ドイツが独ソ不可侵条約を破棄したことにより、
松岡洋右の試みは失敗に終わり、日本はやや不安定な勢力図の中に置かれます。

関東軍特種演習を 41年6月実行します。
ソ連は、日本が南進の方針を決めたことを知り
思い切って兵士を西に集めることができました。

ソ連をもう少し攻めていたら、
ドイツは粘れていた可能性は十分にあります。

イギリスと組んでいたら、アメリカは日本に対して
表立って参戦しにくくなりますし(商船破壊されにくい)、
生糸の輸出で外貨を稼いでいた日本は
もう少しエネルギーを入手しやすい状況になっていたかもしれません。

第2次世界大戦への突入

41年 12月 マレー戦、真珠湾攻撃

1941年に日本はソ連と不可侵条約を結んだ後
フランス政府(ヴィシー・フランス)との合意に基づいて仏印進駐

42年 タイも枢軸国として参戦
42年  3月  マッカーサーがフィリピンからオーストラリアに撤退

43年 9月 イタリア降伏

43年 11月 タイ、インド、満州、ビルマ、フィリピン、南京の中国政府で
大東亜共栄圏を唱える。
カイロ会談

カイロ会談

このカイロ会談は、ドイツを倒すまで、蒋介石が粘れるかの確認をし
蒋介石を勇気づけました。
ただ署名もありませんし、正式な宣言でもありませんでした。

ポツダム宣言後中国は呼ばれていませんし、サポートしばらく後打ち切られ、
中華民国は南京などを破壊しながら台湾に逃れていきます。
中華人民共和国(1955~(世界的には1972~))は領有を主張していますが
正式なカイロ宣言はありませんし、参加したのは違う国です。

ソ連参画への打診

イギリスはアメリカを参戦させ、
アメリカとイギリスは、ドイツがソ連に交戦したため
ソ連を仲間に引き入れました。

マッカーサーのモチベーション

マッカーサーは日本を軽く見ていたところ
開戦直後飛行機等の配備をしたものの
フィリピンを占領され、食料などを日本に取られてしまいます。

そしてオーストラリアに兵を置いて逃げる形になってしまいます。
これがマッカーサーの名誉に傷がつき、
東条英機を一方的な裁判で裁く動機になりました。

マッカーサーは父親の代から、
フィリピンに石油の会社を持っていたそうです。

戦略のない日本の戦い

戦中も、シンガポールに行ったり、大陸打通作戦(1944)や、
カリフォルニア石油に攻撃したりするにもかかわらず、
中東の海を封鎖せず、ドイツ・イタリアは苦戦し、
日本も3本在る紹介ルートを防ぐような戦略的対応はできていませんでした。

また、各国にケンカを吹っかけていて、
生糸で外貨を確保するのがエネルギーをインドネシアから確保するのか
中途半端になっていきます。

また緩衝地域のための緩衝地域確保とおこないどんどん範囲を広げていきます。
戦争では兵站も重要な要素ですが、情報の連携と合わせて
日本は孤立し、誤った判断が増えていきました。

さらに残酷さを重ねた戦争の進め方

44年6月 ノルマンディー上陸
45年5月 ドイツ降伏
45年3月 東京大空襲(一夜で10万人)、硫黄島陥落(日米5万人死傷)
サイパン島の陥落でB-29による日本本土空襲が始まる
4月 沖縄上陸
4月 日ソ中立条約破棄通告
8月8日   ソ連は破棄し参戦

ソ連の大量の人命を使った防衛線や
アメリカと共同で行ったノルマンディー上陸作戦の成功でイギリスは息を吹き返します。
結果フランスも息を吹き返すことができ
チャーチルは尊敬されていますが、イギリス人の元宗主国のプライドとして
アメリカに依頼したことで国内での人気はありませんでした。

沖縄以外でも、硫黄島や大空襲により一般市民は大量になくなります。
東京大空襲も、広島も一瞬で10万人の市民が命を落とします。

これは焼夷弾の開発を考えること自体も残酷で
ハーグ条約からしても違法です。
(サンフランシスコ講和条約で日本は水に流しています)

仮想的になくなるアメリカ人の人数と
実際に亡くなった日本の人数は事実として比較することはできません。

実際往復で日本の本土にたどり着けるようになったら
防空体制を敷かなければいけません。
日本にその体力は残っていない時点で
降伏勧告を受けるのは確実です。
ポツダム宣言の受託を回避するような行動をして
西欧人にはたった3日の間で原爆を落とすという神経の持ち主がいるということは
理解しておいたほうが良いと思います。

原子爆弾についても、
実はドイツやソ連が追い出した
ユダヤ人を日本は優秀ならと助けます。
日本経由でアメリカに渡ったユダヤ人たちは
ドイツを倒すために、マンハッタン計画に参加したものの
使用前にドイツは降伏しました。

そこで日本で使用される可能性が高まったため
嘆願をしますがトルーマン(米)は受け入れず実行します。

一つの理由はトルーマンは、前大統領が急死したため
代理で副大統領から大統領として対応しています。

実際、マッカーサーと問題をおこしたり、
スターリン(ソ連)から話が通じないと思われてたようです。
そして、トルーマンは日本人が大嫌いでした。

また、なまじっかソ連に日本に参戦させ
トルーマンは占有領土を戦勝国(国連)で分配するという
ソ連の主張を制止することができませんでした。

それが、原爆とソ連、中国の条約に違反する被害を
日本をはじめ朝鮮などにもたらします。

各国の進行

1945年ではなく、
1956年と 72年 90年までが第2次世界大戦の終息期間です。

アメリカ

GHQと連動して、各新聞社の言論や教育を統制しました。
そんため団塊世代の人たちは、20世紀の日本の出来事を
あまり触れないように過ごしており、
それについて自信がなくなっています。

その反動が 安保闘争という形で次の世代で起こりましたが
武力で抑えたため、日本にはフォークが流行ったりと暗い影も落としています。

ソ連

4月の通告の時点で日本は対処すべきですが
ほとんど特別な対処をせずにこのような事件が起こっています。

8月9日以降、満州やシベリアなど、
日本が第一次世界大戦で確保した領土に攻め入ってきています。
9月5日に千島列島まで進むとソ連は攻撃を停止しました。

今の日本の地図で見ると北海道が残ったように見えますが
当時の事実上の地図を見ればわかる通り
満州や北朝鮮、南樺太島をソ連は手にしており十分な成果が上がっています。

満州での葛根廟事件(かっこんびょうじけん 8月14日)など、
牡丹江事件(ぼたんこう  8月)、
ソ連は日本人1000名を虐殺しています。
その時に生き残り、中国人に育てられた残留孤児もいました。

敦化事件(とんか 8月)はソ連兵に恥辱され、集団自決に至っています。

麻山事件で(まさん 8月)は、ソ連と満州国反乱軍に囲まれ
集団自決しました。
その時の日本兵はソ連兵と戦って捕虜になっていったようです。

ソ連は日本だけではなく、ドイツやポーランドでも同様な事件を起こしています。

20万人が満州からの撤退で亡くなったという統計があります。

シベリア抑留

ポツダム宣言に反し、76万人ほどが連行され、34万人がなくなったとされています。
エリツィン大統領が 1993年に謝罪をしています。

46年12月 アメリカを通じて協定ができ、 47万人が
他の地域と合わせて56年にかけて引き上げを行いました。

共産党

ソ連は満州を攻め日本の武器をそのまま共産党に渡したとされています。
中国共産党の軍である八路軍の起こした通化事件(46年)での虐殺事件が起こっています。

また技術力のある日本人らは、そのまま拘留され労働させられました。

毛沢東はこれを見越して、自分たちの勢力を温存し拡大するように対応していました。
一方蒋介石は、日本との戦いで疲弊し、トルーマンの採算の支援と勧告にかかわらず
統一できずにいました。
当初は常任理事国でしたが、最後にはアメリカからの支援もストップし、
破れ、南京を捨て台湾に移動します。

49年中華人民共和国が設立されますが、
72年になるまで、国として認められませんでした
(国を統制できる能力があるかが不明なため)。

日本もその年台湾と国交を断絶して、中国と国交とつなぎます。
そのため51年のサンフランシスコ講和会議には中国は、
一地方の集団という扱いで
いつどうなるかわからないと世界では思われていました。

朝鮮

45年 8月にソビエトが進行し、トルーマンと38度戦で分けることに合意しました。
48年 8月 大韓民国
9月 朝鮮民主主義人民共和国
50年 6月朝鮮戦争

中国から戻ってきた李承晩は自分が国のトップであることにこだわり、
国を宣言することで、事実上国が分裂しました。
李承晩は当時位が低いと見ないしていた金日成は目にかけず
反対派を追い出し、日本を憎んでいたのか
対馬を含む宣言をしようと躍起になっていました。
統一を目指す人物はソ連、アメリカなど4国の思惑もありいなくなっていきます。

その時、電力源である水豊(すいほう)ダムを
金日成は停止し、南へ侵攻します。

あっという間に3日でソウルに迫られます。
李承晩は自分たちが撤退した後、橋を市民もろとも破壊し、
(漢江人道橋爆破事件(かんこう  じんどうばし  ばくはじけん))
撤退して水原(すうぉん)に遷都します。

様々準備不足や統制力不足や、敗戦続きで韓国はあっという間に崩壊していきます。
共産主義を抑えたかったトルーマンは、マッカーサーに委任します。
マッカーサーは、状況を見据え日本に警察予備隊の編成を依頼し
日本軍の復活は防止したくとも北朝鮮の攻撃にそなえることも考えるようになります。
(制限付きで、保険の代わりの軍隊)

そのあと、マッカーサーは
中国との拡大路線を主張し続け、
トルーマンからも辞任要求を受けます。

大統領の道は遠ざかり、
老兵としてただ去っていきます。
其のあとのサンフランシスコ平和条約では、
東京裁判の時の東条らに対す態度と打って変わって
日本は仕方なく戦争に突入したというスピーチを行いました。

朝鮮は、アメリカイギリスの参戦で押し戻し、
再度ソ連中国の参戦で小競り合いをし、
38度線で休戦を迎えています。

李承晩は休戦するとまた
李承晩ラインで日本に強硬姿勢を取るようになります。

韓国では、日本に強硬姿勢を取ることで
李承晩配下になれるという文化が作られることになります。

韓国では支配して年貢を取り立てていた両班(りょうはん)の恨みもあり、
李承晩政権はその力も使って政権を確立したので
表では日本を批判せざるを得ません。

これは韓国に限らず、日本や中国の東洋ではよくあることです。
法の前に役人や上司の判断が重要です。
中国では役人が決めたことが絶対ですので、
それぞれの地域で信じられる人同士の輪で行動します。
日本もよいか悪いかというよりも、
近視眼的に上司の言うことや雰囲気を重視して
トップが腐ると考えていない人が多いと下まで腐りやすくなります。

日本の終戦処理

48年  いわゆる国連側の恨みによるワイドショーのような東京裁判が行われました。
名称に Internationalと付いていますが、単なるショーです。
実際このショーを行うため、マッカーサーは東条英機の腹切りの部屋に押し入り
無理やり命を救い、この裁判で死刑にしています。

アメリカとしては日本を独立させて撤退したいものの
アジアの情勢から基地は存続させたい思惑があり
日本としても中国や朝鮮、ソ連を考え
その気持ちを組んだ角栄の見事な采配が51年の旧日米安保条約です。
つまり、日本の依頼により残るという形にしたのです。

これにより次の条約の舞台が整いました。

51年 サンフランシスコ条約をもって、この裁判結果を日本は遂行することを承認し
もし問題があったら、占領されるという条約に署名しています。
これは判断が連合国側(国連)にあるので
独立国として、非常にあいまいな署名です。

また、こののち国民からの署名により
A級戦犯らの恩赦を求めます。
それにより各国と連絡を取り(もちろん一部反対する地域はあるが)
全員釈放されました。

田中角栄は、72年  アメリカから沖縄返還をし
中国と国交を正常化し戦争状態が終了します。
そこについても周恩来と、細かいことは置いておき
互いに軍国主義に被害を受けた者同士、未来に向かって進みましょうという
ロジックで正常化を果たします。

中国はこれ以降、各国と国交を正常化し
一国と扱われるようになります。

それは、また次回に

13) 焼け焦げた日本の文化の根っこ

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。