心で見る血の通った日本の歴史すとーりー~(7)内輪もめと権力争い~


(6)地方の不満と反乱

武家社会の発生

頼朝が征伐していく中で
天皇から位をもらえることになりました。

そこで義経はホイホイと位をもらってしまい
関東武士からスカンを食らいそうになります。

もともと、関東武士の待遇を上げるために対応したのに
まだそれが終わっていないうちに、天皇の子飼になるなんて!
という憤りです。

それに危機感を感じた頼朝は
結局義経を討伐するほうを選んでしまい、
奥州藤原とともにやっつけてしまいました。

ちなみに、
この時、東北の討伐という名目で
「いちいち京都に戻るのかったるいから、ここにとどまっとく」
という理由で、出張布陣を敷きました。
それが、布で囲った、野営地である拠点です。
(幕府という概念は、吾妻鏡や、 明治以降と考えられる)

当時は中央から遠いので、
正確に把握していたかわかりませんが
京に戻らずに、鎌倉で貴族とはまた違った役職として存在していきます。

しかし、義経を討ったりするなど
徳がなかったのでしょうか

天皇「位やるけど 。いる?」
頼朝「いるいる」
とほいほいと向かい、位を受けてしまいました。

反感を買ったというのは想像に難くありません。
其のあと、源氏は、すぐ滅亡してしまいます。

鎌倉でも
それぞれの内紛が絶えてなかったと思います。

そうこうしているうちに
北条氏が内紛を制し始めていきました。

その内紛に乗じて後鳥羽上皇が
政権奪取を目指します(承久の乱)が、
北条氏は御家人とともに撃退します。

また、アジアを席巻していた
元寇にも対処し、また内政についても武家諸法度などを作り
安定を目指しましたが、
執権政治に不満を持つ分子が増え、
徳政令などの政策もあり力は徐々に落ちていきます。

治まらない武家社会

後醍醐天皇のころ、楠木正成たちと何度か
倒幕に立ち上がり、ついには破れ、
足利尊氏も朝廷側につき、
北条家は討伐されてしまいした。

そのような流れでしたがまた同じようなことが起こり
京で応仁の乱が発生します。

京の狭い範囲なので一般市民は
あまり影響を受けなかったと思います。

そののち、世の中は戦国時代に向かいます。

荘園のソバに合った寺も
実質守護と同じ、武力で荘園を守る事をしていました。
つまり、今のお坊さんのようなイメージではなく
武装された僧です。それを完膚なきまでに叩いたのが信長で
以降、荘園は武家が支配し、
お寺は武器を持たない現代のようなイメージになりました。

武家社会の安定

戦国の末期では、徳川は綿密な計画を立て
間接的な支配を敷きますが、
完全に武力で握ったわけではありません。

そのため、鎖国政策や参勤交代、
大名の配置をはじめ数々の手を打ち、
太平の江戸を敷きました。

ほぼ完ぺきな共産主義のように
計画的に運営していきます。
それは太閤検地による、正確な石高把握があったからです。
1石高でたわら一俵になり、今でいうと一人1年分ぐらい食べれる量です。

また江戸の湿地帯の大干拓工事や治水工事を行い
大きな人口を抱えるまでになりました。
例えば利根川は、東京湾ではなく、太平洋に流すように工事を開始しして
そのあと100年後ぐらいに工事を終えました。
利根川は坂東太郎というぐらい、親しみがあり
それ以降江戸の町が大雨で大洪水になることも
少なくなり住みやすい街になっていきました。

また飲み水についても、
桜上水などの工事も行い、水道の整備もしています。

だから、人口は開拓しないと増やせられませんので
次男坊、三男坊は、男の子が生まれなかったお家に養子として
向かい入れるしか道がありませんでしたし、
成長する前に、命を落とす子供も多いです。

このような政策で
無用な争いも少なくなりましたが
地方には関ヶ原の戦いで、抑え込まれた武士もいますし、
負けたと思っていない大名家もいました。

 

その平和と繁栄はすごく、
中国に来たマルコポーロは
日本という黄金の国があると伝え聞いた内容を
ヨーロッパに伝えました。

その時ヨーロッパを中心に激しい争いが続いており
技術革新が進んでいました。

日本に元禄文化や浮世絵が花開いたように
ルネサンスという文化が花開きました。

それは、また次回に

(8)終わらない侵略

補足

三種の神器と天皇の正当性

ちなみに、平家の最後の戦いである
壇ノ浦の戦いの前に、今日に戻った平家は3種の神器をもって
天皇とともに逃げます。

源氏は正当な天皇を主張できないため
奪還を目指していましたが、

平氏は破れ、3種の神器とともに、入水自殺しました。
そのため、3種の神器がすべてそろわなくなり

以後また、くだらない正統性争いが
室町時代にも起こることになります。

大航海時代

このころ、室町時代では、日本でも免罪符が流行し
一休宗純が鬼にも毒にもなりながら、説いていたそうです。
ヨーロッパも同じころ、免罪符に不信を持った人たちから
ピューリタン革命(1641~頃)が起き、貧しい人たちは、カトリックと別れ、過ごすようになります。

アメリカの成り立ち

その集団も多くが、大航海時代に西に東へ移動していきました。
アメリカに目を移すと、
北米ではヴァージニアや、メイフラワー号でプリマスに渡ったり、
ニューなんちゃらという都市を作り
住み始めます。

イギリスはフランスとの7年戦争に勝ち
ミシシッピ川以東を手に入れます(1756)。

そのあとはフロンティアスピリットと西部開拓時代で
西に西に侵略していきます。

自治に対する自立を求め
ボストンティーパーティー事件(1773)を起こし、独立も果たします。
(1776 アメリカ建国)

また、黒人を使った南部富裕農村は、ガンガン輸出する(自由貿易)のに対し、
北部の工業は力がないため輸出を制限したい状態(関税をかける保護貿易)でした。
その対立から南北戦争(1861~65)が起こります。

多数の被害を出した当時大統領のリンカーンが行った
ゲティスバーグ演説が実は戦争の分岐点であったため
有名になります。

勝利した北部は黒人解放宣言(1867)を発布し、
黒人の労働力を得ることができた北部は
南部の混乱をよそに力を得ていきます。

この強引なやり方が、KKKなど白人至上主義を強め、
黒人と区別する南アフリカのアパルトヘイト(1911,1913,…)や
実質その同等の内容のジムクロウ法(1876)が成立し、
合法的に差別されていました。
1964年ノーベル賞をとったキング牧師のI have a dreamの演説の活動もあり
その後1964年に公民権法ができて、差別は表面上なくなります。

イロコイ族は南東からグレートプレーンズの平原に移動され農業から狩猟に転換せざるを得ない状況でした。またスペインの馬を手に入れたスー族は、力をつけていきます。

「インディアンは嘘つかない」という言葉がありますが、それは日本の天皇制や武田軍の合議制のようなやりかたを酋長(しゅうちょう)はするので、西欧のような命令ではありません。調整役の酋長の話をもとにそれぞれが対応するため誤解があったようです。

平原に移動しても鉄鋼王カーネギーの作った大陸横断鉄道や、
バッファロー狩りで飢餓にあえいでいきます。
また居留地に移動しても食べ物や年金は届かず
1890年スー族も倒れインディアン戦争は終結します。

1848年ごろ西海岸のカリフォルニアや
1899のアラスカのゴールドラッシュを経て
金の流通量(マネーサプライ)が増大します。
金券やお金という名の通り当時は金本位制で、
金の保管料を示した兼でしたので。

このころジョン万次郎がカリフォルニアでゴールドラッシュを経験したり
リーバイスというジーンズメーカーができたり、
雑貨商を営んだスタンフォード(スタンフォード大設立)が
生まれたのもこの時期です。

1890年  日本明治政府の支援もむなしくハワイを併合し50州となり今の国旗の原型ができ、1898年キューバやカリブ海の周辺やグアムをスペインと戦い取得しています。

1840年のアヘン戦争で、香港はイギリスになります。

 

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