心で見る血の通った日本の歴史すとーりー~(9)大義がなくなっていった国~


(8)終わらない侵略

権力基盤の確保

西洋などの大陸では
日本以上の規模で争いが絶えませんでした。

日本においても、粗野で乱暴な若者が
なまじっか得てしまった財力と武力を使い、
大攘夷を主張していた幕府を潰して成立したのが
明治政府です。

明治政府は長州と薩摩が多くの役職を占めます。

明治政府が力を握るために
色々な政策を進めました。

  • 教育の概念の変更
  • 大義としての天皇制と神格化、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)
  • 公家に対する釘差し(五箇条の御誓文)
  • 藩のとり壊し(版籍奉還、廃藩置県と不満が出にくい様に2段階に分けて実施)
  • 農民の国有化(国が直接動かせる兵士・軍隊の確保)
  • 税金の徴収権(円の普及)
  • 鉄の確保(富国強兵、富山製糸工場、足尾銅山や炭鉱、八幡製鉄所、ヨーロッパでの国債発行など)

公家同士の争いは、長州藩たちに味方をし
普段から下に見られていた三条実美らが勝利しました。

大義がなかく困っていた伊藤博文は
当時成立したプロイセンを参考に、
大日本国憲法と天皇制を思いつきました。

外部交渉の知識のなかった使節団

岩倉具視らは、軽い気持ちで周遊したものの
世界を回る過程で、全権大使の概念もありませんでした。
岩倉具視使節団は予備交渉が難航し、いったん取りに帰ったほどです。

そもそも、薩摩と長州が中途半端にケンカを売ったため
交渉が難しくなって不平等条約や賠償金を背負うことに
なってしまったものですが。

また日本に理解のあったのニコライ2世(のちの日露戦争時のロシア皇帝)に
切りかかった警察官(大津事件)がいたため
戦争に影響したかもしれませんが、児島 惟謙(こじま いけん)の働きもあり
日本の法治国家としての意地を通すことができました。

天狗になっていた使節団は
あまりの技術力の差に
さらに考え直します。

ちなみにこの使節団に、会津戦争を戦った捨松や、
津田塾の津田梅子などが参加していました。

捨松はのちに後妻として大山と結婚し、
初めて鹿鳴館で結婚披露宴を開きました。

鹿鳴館は、西洋風の交渉の場として
外交上の理由で建てられた建物です。

続く明治政府内の権力争い

明治政府ができた後も
権力争いが続きます。

使節団が周遊している際にも
大隈らも策を打っていましたが
明治天皇のご意向で、それもスムーズにいかなくなり、
内部亀裂が確定しました。

結局、朝鮮半島を融合してロシアに備える案は却下され
板垣退助(土佐)らとともに、敗れ去り下野します。
円を作った大隈重信(おおくましげのぶ)も敗れ去り、
明治政府は、大久保利通、伊藤博文など
かなりの割合が長州藩の出身で占められるようになります。

廃藩置県や兵制により
文字通り不平士族の反乱が全国各地で起こります。

西郷隆盛も朝鮮出兵の道は朝鮮野心を刺激するということで
天皇から無期限停止を受け、下野します。

そして佐賀の乱や神風連の乱などが起きました。
西郷隆盛もその時は同調しませんでしたが
西郷隆盛も例外ではありません。
最終的には武士とともに
幕を閉じました。

その時の西南戦争(1877)には、若き日の大山巌(おおやまいわお)や
乃木希典(のぎまれすけ)、児玉源太郎(こだまげんたろう)も参加しています。

西郷隆盛の写真はこのいとこの大山と弟の西郷従道の顔を足して
作られたそうで、確かにその面影はあります。
奥さん?はその写真を見て全然違うといったそうですが。

清は併合を主張していた台湾で、
宮古島の琉球人が拉致され殺害されたとき(牡丹事件 1871)
清の漢政府は一部メンバーを保護したものの
管轄外という理由で問題解決を拒否しました。

そこで日本はこの西郷従動をたて
台湾出兵を行います(1874)

また、正式に派遣通達をしていなかったこともあり、
問題が発生しましたが、日清間で条約を結びました。
その時琉球は、清への朝貢は止めたくないという嘆願をだし
清は領有ではなく独立を志向し、
日本は結局冊封せずに主張を認めています。

またこの時、三菱のみが輸送に手を上げ
発展の足掛かりにしました。

清はこれ以降、日本への警戒を強め
北洋艦隊の建築を開始します。

この後は国として、
まい進することになります。

それは、また次回に

(10) 動き出した明治政府

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