【歴史】豊臣秀吉はあえて信長を見殺しにしたか検討してみた【新説?】


本能寺の変

本能寺の変で有名なあのイベント。

いろいろ不可思議なことがありますね。

色々気になって、
自分も納得した話を土台に考えてみました。

明智光秀の子孫らしい人の本です。

光秀謀反の理由

癇癪を起こした説

明智光秀が、癇癪を起こし殺害した説は、
ありえないかと思います。

武将クラスが、殺されもお家断絶もしないのに怒るわけがなく、
しかも、信長の気持ちもよくわかり実行力のある光秀のこと
それぐらいで一々信長を倒さなく、動機としては弱いかと。
(実際、秀吉や徳川時代の創作との説もあります)

むしろ、四国と和議を結ぶために
しつこく、信長に考え直しを具申して
決まったことと怒られた可能性のほうが高いでしょう。

長宗我部との約束を信長に反故されて、ひけなかった説

一旦長宗我部を説得し、婚姻関係も結んだところで
信長が方針を切り替えしました。

斎藤としても光秀としても、
名誉や信頼を傷つけられる十分な理由です。

ただそれで謀反まで行ったかどうか
弱いような気がします。

土岐氏としての復興を願った説

長宗我部と懇親の仲というのは、
まだ動機としてはやや弱いですが
律儀な光秀であればかなり重要な動機だと思います。

織田信長と長宗我部元親と明智光秀の関係について詳しく教えてくださ… – Yahoo!知恵袋
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1427961634
長宗我部元親の妻は、美濃の名族である石谷(いしがい)氏の出身だと言われています。 石谷氏というのは、美濃の代々の守護をつとめる土岐氏の分家で、明智も土岐の分家ですから、つまり長宗我部元親の妻は明智光秀の同族だったということになります。 もう少し具体的に言うと長宗我部元親の妻(石谷氏)は、確か明智光秀のいとこか姪にあたるくらい近い血族であり、また光秀の家老である斎藤利三の妹であると言われています。

また2014年にその書簡が発見され
また、光秀謀反の際に長宗我部は支援に動いた気配もあります。

本能寺の変直前に土佐の長宗我部元親と明智光秀との書状のやりとり判明 | BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)
http://bushoojapan.com/news/2014/06/23/24004

切り返しのスピードの異常さ

明智光秀から柴田勝家までの
攻略の速さは尋常ではありません。
予期し準備していたかのような段取りです。

豊臣秀吉も、信長が徳川家康殺害を予定していたことを知っており
スパイを一緒に参道させ、いよいよ本能寺に付近で
信長が油断し、光秀が動き出すのを監視していたと思います。
(家康の実力を重宝して接待したのか、
目の上のたんこぶとして認識していたのかは推測ですが
接待を何度も家康が断っているうえに、少人数で信長の接待を受けるのは
かなりのリスクがあります)

当時ですから、移動に早くても4,5日は掛かる(現在で200kmの距離)可能性があるため
段階的に情報を集めさせていたと思います。

兵士を3万単位で動かすには、もっと計画が必要です。
特に兵站(へいたん)です。
秀吉は、目前に迫った天下取りの道を
チャンスと見て掴みにかかり
賭けに出たようです。

単純な移動だけでなく、200km移動した後に
生死をかけた戦いを兵士はします。
20~30kmの移動が限界でしょう。
(私も20kgを担いで沖縄を歩いて縦断したり
一晩で60kmを走破した経験があります)
兵士の疲労や不満を抑えるために、褒賞を与える
話が出てこない時点で、
もしかしたら普通の行軍だったと推測されます。

家康も秀吉も、早すぎることがバレないように
あえて遅らせたような
印象操作をしている節があります。

和議から、道中の移動、決戦の候補地
にげなかった織田信忠の攻略(秀吉が倒したわけではない)
織田家やその武将達との交渉、勝家との決戦。

信長家臣は周囲に追いやられていた

身内で固めた信長。
京周辺は親類のもので固め、
秀吉は中国、丹羽は四国、柴田勝家は北陸、明智光秀は近畿(だったかな?)
を任せました。

1577年ごろ 別所長治 や松永久秀らの反乱
1578年 荒木村重
1580年 佐久間信盛の追放  秀貞を昔の謀反の罪で追放

織田信長が偉大過ぎるという日本地図。戦国時代地図を10年ごとに見ていった結果!!
http://foreisoku.com/archives/26622/

今回は
秀吉からしたら、大きく拡大するチャンス
です。
信長家として、光秀の所領を奪っても大差ありませんが、
そのあとの織田家の懐柔を考えれば、織田家の1/3ぐらい取れる可能性もあります。

光秀が信忠をやってくれたこともかなり幸運です。

家康も知っていた?

家康も光秀が動く可能性があるのは知っていたのか、
無事戻れた後は、旧武田領を積極的に攻め落としながら
急速に秀吉が帰って整備し始めたところで
警戒し始めています。

秀吉に気を使い、鐘の問題が出るまでは
大名として共存しようとしてように見えます。

もうひとつ徳川家康は、その後光秀に恩義を感じているような気配があります。

家康→秀忠→家光→家綱

2代将軍をすぐに征夷大将軍として継承し
名前にも徳川秀忠と秀の字がついています。

でも歴代将軍の中で、3代将軍だけ光がついています。
それは、明智光秀のから取った可能性や
駿府城で2元政治していた家康が、
突然という光の着いた地名に慈眼大師天海を貫主にし
さらに廟所(びょうしょ)も日光にした理由がよくわかりません。

1590年 秀忠と名乗る
1598年 秀吉没
1603年 家康、征夷大将軍となる
1604年 家光が生まれる
1605年 秀忠に継承
1616年 家康没

光という字は秀吉の死後付けられました。
秀や光はたまたまという説もありえます。

家光は幼少の頃、家康と同じ竹千代と呼ばれ、
光秀配下の斎藤利三の娘の福(春日局)が乳母となりました。

光秀を主君の敵討ちを気にしていたとはとても思えません。
(ちなみに切腹の経験のある八切止夫は、家康の実子ではないかという説を展開しています)

家康が知っていたこと を隠していたと言われる理由として
日光東照宮の彫刻で見ざる聞かざる言わざる(三猿)を
採用しているところはうますぎる話です。

見ざる聞かざる言わざるは、インド起源説もありますので家康がジョークで
メッセージとして暗に組み込んだかどうかまではわかりません。

その他にも、なぜ穴山梅雪だけ別行動で、織田領で
落ち武者でもないのに殺されたのか(武田領を攻めるため?)

光秀はなぜ織田家の片腕とも言える家康が直ぐ側にいることを知りながら
倒しに行かないのかというのも疑問ですよね。

もう一度考え直すと
win-winの関係で結果的にそうなったのか
それとも
光秀は家康のために動いたのか
という可能性も考えられます。

秀吉、家康はお互い、相手が光秀の動きを
知っていた可能性に気づいたのかもしれません。

その後の二人のやり取りは、
武力や信頼とは違う気配で繋がった何かを感じます。

あくまで説ですが、光秀の意図を知っていたといいう前提で
その後の家康と秀吉同士の交渉や やり取りをこうしてみると
また、何かニヤリとする面白さがあります。

備中高松での収束に向けた段取り

織田根城に切り返す際
すぐ殿(しんがり)を残す準備をするのか
和議を結ぶのか滅ぼすのか考えていたと思います。

計画通りかわかりませんが
少しでも確率を高め
このタイミングになるよう
秀吉は、光秀が兵を持てるように備中高松は苦戦し攻められないと
信長に報告したのかもしれません。

結局現地では、水攻めという前代未聞の策をかなり大金をかけ
堤防を築き、援軍が来るという風説も流し
援軍が来る前に 城主の清水宗治の自害を条件に和議を結んでいます。

もちろん、毛利援軍が来る前に対応した可能性もありますし
5月中には急いで確実に和議に持ち込みたかったという気持ちがあったという可能性もあります。

ちなみに当時石田三成は、水攻めを憧れたのか
豊臣秀吉の小田原攻めのタイミングで
小田原の支城・忍城(おしじょう)を包囲し、水攻めをやろうとして失敗しています。

(そもそも水攻めをする前に開城したという説もある)

その話は小説にもなっています。
次の作品も軽めの歴史小説として面白いのでおすすめです。映画にもなりました。
のぼうの城

3月15日 秀吉は2万の兵で姫路を出立
              宇喜多勢1万を加える
4月15日 秀吉は城を包囲
(移動に 1ヶ月弱かかっている計算に成ります)
5月8日   秀吉は攻めあぐね、4万の毛利軍がくるという情報で、援軍を要請。
堤防構築を開始(12日後完成)
5月15日  光秀は家康の接待役を任される
5月17日  光秀は秀吉への援軍準備開始
5月21日  毛利軍到着(すでに堤防は完成)
5月27日  光秀は愛宕山で祈願
5月29日  信長も安土城から出て、本能寺で援軍の準備
6月1日   信長も茶会を開く。
6月1日   光秀は亀山城を出る
6月2日   本能寺の変。丹羽長秀と京都や堺にいた家康も本能寺の変を知る。
6月3日   秀吉、勝家も本能寺の変を知る。
(お家全体の命に関わるのに戦争中あえて秀吉に捕まるような伝令バカはそうそういない。
日本の馬はサラブレッドではなく、どさん子タイプの馬)
家康の伊賀越え
6月3日   光秀は坂本城で調略
6月4日   和睦(清水宗治切腹)
家康は岡山城に到着。武田領と名古屋方面へ進軍(表向きは光秀討伐)
6月5日   安土城を光秀は攻略
6月5日   毛利方も本能寺の変を知る
6月6日    秀吉が1日様子を見、警戒しながら戻る
(毛利は守備陣営を敷いていたことと、
伯耆の国(ほうき:鳥取あたり)から毛利軍は攻められる可能性があった)
6月8日    光秀は秀吉の行軍を知る
6月13日   10日かけて戻った後、大崎の戦いで勝利(翌日光秀死す)
6月15日   家康は名古屋の鳴海で秀吉の勝利を知り引き返す。
6月18日   勝家は長浜城まで進軍(現代で魚津城から264km)

馬は一日100kmくらい走るのが限界でしたか… – 動物 | Yahoo!知恵袋
24時間かけて、160kmを走破します(http://馬術競技.com/syumoku/endurance/)。

他の武将は動けてさえもいませんが、
秀吉と家康の動きの速さは目をみはるものがあります。
(むしろ光秀よりも早いぐらい。)

光秀

光秀はもちろん、ある程度
この時のため、行動や作戦を考えていたかもしれないですし
家康と共謀していた可能性もあります。

いつ実行するかは読めていなかった可能性もありますが
突然降ってわいたこのチャンスに
光秀もやる気が出たのかもしれません。

秀吉

プロジェクトを計画する時、自分なら10%でも20%でも先にすすめるところは
リスクヘッジしながら進めます。

つまり、秀吉も備中ではある程度毛利家との安全を確保した上で
すでに、 2,3割から5割の軍隊は引き返していた可能性もあります。
(4万の大群が来ているなか、
どれだけ安全にしかも本能寺の変を知られる前に
動くのかは当時の伝達スピードから
おおよそでしか秀吉は推測せざるを得ません)

家康

家康は秀吉の行動の速さに
光秀を救うにしても
迷いを見せていたようにも見えます。
秀吉から、牽制情報が各武将に流れていた可能性もあります。

なぜ織田信長は油断していたか

織田信長も長年の懸念であった家康を取ろうとしたためか、
油断があったのか光秀に大群をもたせ、
リスクのある場所で陣取ってしまいました。

狙っている最中は獲物に集中しているため
周りの状況がよく見えないことがあります。
HUNTERxHUNTERでもヒソカからバッチを取る瞬間のシーンがありますね)

まとめ

光秀が謀反した理由の決定打は
思いつきもしませんし、見当たりませんでした。

信長の天下布武実現が近づくに連れ
身の危険を感じていた秀吉は、
かなり用意周到に切り返したと見えます。

柴田勝家とすぐに戦うことまでは、
あまり準備はできていなかったと思いますが
織田信長を見殺しにした可能性は
状況や動きを見る限り十分
あるのではないでしょうか?

参考

備中高松城の戦い – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%82%99%E4%B8%AD%E9%AB%98%E6%9D%BE%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

織田信長 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7

柴田勝家 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B4%E7%94%B0%E5%8B%9D%E5%AE%B6

本能寺の変 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%83%BD%E5%AF%BA%E3%81%AE%E5%A4%89

豊臣秀吉 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89

徳川秀忠 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%A7%80%E5%BF%A0

三猿 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%8C%BF

など wikipedia各ページ

家康暗殺計画
http://www.geocities.jp/syutendoji28110/mitsuhide07.htm

本能寺で信長が無警戒に近い状態であったのはなぜか~~本能寺の変2 | しばやんの日々
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-98.html

 

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