ニュースがわかるようになる!中東の近代の流れをざっくり25分で~戦後から2020年まで


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中東の時代の流れを少し

大航海時代

栄華と覇権大国

スペイン、ポルトガル

ヨーロッパが、航海術や鉄砲で世界に進出していき、特にスペインとポルトガルがその頃の強国でした。

スペインカルロス1世が 神聖ローマ皇帝に即位し、フェリペ2世が1580年ポルトガルを併合し、スペインの栄華が80年ぐらい続きます。

イギリスの拡大、プロテスタント勢力

一方で、イギリスに無敵艦隊(1588年 アルマダ海戦)が敗れ、弾圧に耐えかねたプロテスタント( 1566年 80年戦争:オランダ独立戦争)が独立するなど、欧州では、スペイン停滞の気配が表れます。

※当初秀吉は、マニラあたりの情報も合わせ、カトリックが奴隷貿易をし、一神教で神社仏閣が壊されているため、カトリックの大名の改宗と強制的改宗を禁止し、攻められる前に明に出兵し防衛網を築こうとします。しかしスペインが弱まっていったこともあり、朝鮮などでは水が悪く、熱帯の病気等もあり、引き揚げていきました。(日清戦争でも、戦死というよりも、水や病気で大量になくなっています)

1618年 30年戦争後の神聖ローマ帝国・ドイツは疲弊し、オーストリア公として生き残っていき、ヨーロッパでは、 ウエストファリア条約で相互の国境を認め、国家体制に移行していきます(国民国家の基礎となる考え方が広まり、小国家も独立していく)。

1713年 スペイン継承戦争後の ユレヒト条約でイギリスは、ジブラルタル海峡を獲得し、地中海の内外を経済も含め優位に支配していきます。オランダは北海経由であるため、貿易はできます。その時ささやかな贅沢(カトリックの華美な生活にクレームをしているからなおさら)として、暖炉や自画像(画家のパトロン)ではなく、チューリップを鑑賞することが一部の富裕層ではやり、チューリップバブルが起こったりもします(影響は小さかった模様)。しかし、イギリスのドーバ海峡を抑えられ、強国にはなり切れませんでした。

1791年 林子平が 海国兵談を起こすなど世界の情勢を知り、海防の議論が盛んになります。

インドに続き、1570年ごろから フィリピンのマニラ(東南アジアでは日本人が多数兵士として活躍していた)でスペインが、1840年 アヘン戦争でイギリスが東南アジアへと徐々に進出してきました。

イギリスの拡大と、ロシア

そのころ、モンゴルから分裂してきた汗国を乗っ取りロシアが力をつけはじめ、ヨーロッパの進出、シベリアの進出試みます。

イギリスからインドへのルートのオスマンでクリミア戦争(1853年)が起こります。1856年 パリ条約で  地中海から(エーゲ海、)そして黒海にいたる ボスポラス海峡とダーダネルス海峡とをイギリスは確保し、ドナウ川の通航制限を行います。

黒海はトルコの北のウクライナの間にある海で、最近でもクリミア基地の問題が起きました。そのイスタンブールにある両海の海峡が上記です。
ドナウ川は黒海に流れるルートでオスマンとの国境になり、オーストリアが軍艦を進めて防衛もできます。

クリミア戦争の際、英仏とロシアが東アジアで戦っているとき、ロシアは日本を味方につけたいため長崎から入りますが、当初断ります。日本は大国に挑む前に、一旦アメリカと植民地にならないように条約を結びます。ペリーは一旦交渉するも、2度目は軍艦を連れてきましたが、江戸では大砲の軍事演習で強さを見せつけ威嚇します。それにより半文明国としてなんとかもぎ取った条約でした。

1875年にイギリスがロスチャイルド家の支援も使って、売り出されていたスエズ運河株式会社の株式を買収します。

ロシアは1877年露土戦争で、トルコに勝ち、ブルガリア、セルビアなど独立して進出の機会をうかがいますが、英仏に跳ね返されます。東の中央アジアでは騎馬民族(清含む)に、阻まれ東へ拡張します。

シベリアを超えて、カムチャツカ、果ては、アラスカまでやってきますがそこでまたイギリスにブロックされる形 (カナダ) になりました。最終的に1867年アメリカに売却します。

ロシアは、満洲、沿海州のほうへの南下政策が始まり、株式会社や鉄鋼の技術に合わせて、シベリア鉄道が建築されます。日本ではフランスらに費用を借りて、八幡に製鉄所を作り、ロシアに対応します(銅や絹繊維の輸出など)。

ロシアは清が混乱する間に、条約を駆使し、進出していきます。
1689年ネルチンスク条約
1858年 アイグン条約

1900年義和団事件によって、紫禁城で柴五郎が活躍している 混乱のさなか 、満洲を虐殺・破壊し進出し日露戦争を迎えます。

イギリスは、パワーオブバランスの関係で、日本と同盟を組み、トルコやイギリスから上記海峡封鎖などで邪魔をされ、黒海艦隊ではなくバルチック艦隊で疲労困憊しながら戦いに行きます。

第1次世界大戦でもシベリアへの機会をうかがいますが日米が立ちはだかります。日本はPKOをすることにより、不平等条約を撤廃できることに気づき、 WWIではイギリスの植民地・カナダや地中海を守ります。その時エジプトの混乱の際、安全のため軍隊を派兵し、スエズ運河を確保します。

敗戦後、日本も含め各国のスパイ活動もあり、1917 ロシア革命が起こり、マルクス主義を利用した国家体制が出来上がります。1923年にはコミンテルンが、東欧や支那の中国方面、アメリカ・イギリスも含めて暗躍します。

第2次世界大戦でソ連は、ドイツ、米英を利用し、アジアや東欧の支配を拡大し 東ヨーロッパ、中国が共産圏になります。

イギリスは4か国条約(1921)やWWIIのミスも響き日本と離れ、1947年8月15日のインドの独立など、植民地がなくなっていきます。

WWII以降(本題)

第一次中東戦争 ’48-’49

ドイツ人のユダヤ人虐殺もあり、パレスチナにユダヤ人が入植してきました。弱ったイギリスが、治安等に困りパレスチナの植民地をイスラエルに渡して、分割統治するよう国連で決議します。

1948年イスラエルが独立を宣言し、領土争いに不満があったためアラブ周辺諸国と激しいテロ合戦などが起こり戦争になりました。

自爆テロという言葉もよく使われるようになりました。

パレスチナにおいてアラブ側に残された土地は、エルサレム旧市街(東エルサレム)を含むヨルダン川西岸がトランスヨルダンに、地中海沿岸のガザ地区(イスラエル南西)がエジプトに、それぞれ分割され境界はグリーンラインと呼ばれ柵が設置されました。
・西側
・東側:旧エルサレム: トランスヨルダン
・南西:ガザ地区:エジプト

イスラエル側は念願の独立国家の建国に成功し、国連分割決議よりもはるかに広い領土を確保したものの この戦争の結果は双方に不満を残すものでした。それは、肝心のユダヤ教の聖地である嘆きの壁を含むエルサレム旧市街はイスラム教国であるトランスヨルダンの手にわたり、ユダヤ教徒は聖地への出入りが不可能になってしまったからです。

※根っこまで所有するから問題になります。うまく緩衝中立地帯を作れれば良いのですが。

第2次中東戦争 ’56

これは、少し毛色が違い、アスワンダム建設停止に対し、エジプトはスエズ運河の領有を主張しました。英仏はイスラエルと協働したものの、米ソが核などを使って脅し、荒廃していた英仏は、負けてしまいます。イギリスは自信も喪失しました。

イギリスは鉄の女サッチャーが就任し(1979)、 1982年のフォークランド紛争で、断固として戦う決意を行いました。わずかに勝利し、イギリスの自尊心を回復しました。

また、スエズ動乱と呼ばれるこの戦争で、PKOというものが生まれました。

第3次中東戦争 ’67~’70

ソ連のKGBが戦争の気配がないにもかかわらず、エジプトやシリアに戦争を吹っ掛け、これに危機を感じ、助けを求めたもののアメリカはベトナム戦争で余裕がなく、イギリスも余裕がありませんでした。

四面楚歌のイスラエルが周辺国へ先制空爆を行った戦争です。

  • エジプト、イスラエル、シリア、
  • イラク、ヨルダン

スエズ運河は危険で使えなくなり、パレスチナ難民が大量に出ました。

戦争の直前(1964)には、イスラエルのアラブ人を救う、パレスチナ解放機構PLOが発足します。のちに共存共栄に方針転換しました。

パレスチナ解放機構 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%83%81%E3%83%8A%E8%A7%A3%E6%94%BE%E6%A9%9F%E6%A7%8B

 

第4次中東戦争 ’74

これに不満を感じたエジプトの反撃により、始まりイスラエルの無敗伝説にくさびを打ちました。イスラエルが盛り返して最終的に停戦したものの、 アラブ石油輸出国機構(OAPEC) は、交通費の値上げ、西洋への輸出制限で対抗し、日本を含めオイルショックを1973,79年に引き起こします。

1978年に キャンプデービッド合意を行い、和平にいたりました。

アメリカはイスラエルを支援したものの、ソ連は介入するためアラブ諸国と結びつきを深くしました。

また産油国が、値上げ手法に気づき、経済発展をしていきます。

国連決議で、イスラエルの領土は無効と決議され、1993年オスロ会議でパレスチナ自治区を定義したものの、イスラエルからのユダヤ人入植は続き、不安定な状態です。

1980年代~(国と思想の対立)

東南アジアと東ヨーロッパの争いが膠着し、中央アジア(中東・エジプト北部)に向いているように見えます。中国は、チベットやウイグル、内モンゴルをせん滅し吸収しました。ロシアも分裂した後も中央アジアに影響力を及ぼしています。

イラン革命

1979年 イラン革命がおこり、イスラム原理主義が隆興してきます。サウジアラビアなどの王国にとっては脅威的な考え方です。

アフガン侵攻

1979 年 アフガン侵攻が発生します。アフガニスタンを支援するソ連、インドと宗教を重視するタリバン勢力の対立が長く89年まで続きました。反政府勢力側はアメリカを中心とした西洋諸国です。最終的にソ連は軍事撤退して、情勢はタリバンに有利ですがソ連らが政府軍を支援しているものとみています。

・北部同盟: アフガニスタン( 承認国家): ソ連
・ターリバーン政府

当初支援していたアメリカは、アルカイダのオサマビンラディンなどテロ支援をかくまっているという理由で攻撃し、殺害(2011)しています。

安定すれば、カスピ海から、中央アジア、インドへのパイプラインが完成します。

日本では、中村哲医師が、川から水を引いて小麦畑を復活させました。
現地活動|ペシャワール会
http://www.peshawar-pms.com/index_act.html

イラン・イラク戦争 :第一次湾岸戦争

1980年 イラン・イラク戦争が起こります。

シーア派、スンニ派の対立、アラブ、ペルシアの対立、チグリス・ユーフラテス川の石油輸送経路の確保などの理由が言われています。

西側の小さいイラクが石油を交渉材料に、西洋諸国を味方につけ、アラブ諸国と石油資源をかけ戦いました。

ミサイル合戦でトマホークが使われ、防衛には対空兵器がつかえなかったため、PAC3の技術開発がされました。

化学兵器も使用され、これがのちのイラク戦争の開戦理由としてでっち上げられました。

82年にレバノン侵攻が行われ、そのイスラエルによるビル倒壊を目撃したことで アルカイダは9.11の同時多発テロ(2001)を起こしたとウサマ・ビン・ラディン証言しています。

  • イラク:サウジアラビア、イスラエル、アメリカ
  • イラン:アラブ諸国

85年には、日本人が取り残され、 撃ち落される危険の中トルコが エルトゥールル号(1890)の恩を覚えてくれていて救出されました。

イラクの反政府クルド人に、イランは支援したり、アメリカの報復でイラン油田が破壊されると 1986年にブラックマンデーが起こりました。

実際には米ソ中は、両陣営と武器取引していたといわれています(イラン・コントラ事件など)。

また、ニュースで読み解いても、プロパンダ合戦があるため、正しい情報を見極めるのは難しいので、西洋のニュースだけに頼らないようにソ連やアルジャジーラなども見て、それぞれどこまでが真実か見極めたいものです。

クエート侵攻 ’90・ 湾岸戦争 ’91

イラクはアメリカ・クエートへの賠償額増大に対し、OPECは1バレル15ドルから、25$に挙げる要求に対して無反応、クェートとの石油採掘について意見が分かれクエート侵攻につながりました。

湾岸戦争ではイラクは孤立し、スカッドミサイル等を使用しイラクは応戦します。
アメリカはバンカーバスター、パトリオットミサイル、F15戦闘機、GPSを駆使して応戦します。これらの兵器や嵐の砂作戦などは、ゲームでもよくつかわれています。

西洋諸国はサウジアラビアなどに基地を作りました。これがアラブ諸国やウサマ・ビン・ラディンなどの反感を買います。がウサマビンラディン自体は、国籍をはく奪されました。

ペルシア湾の石油流出とそのねつ造の写真が記憶にあると思います。

一般死者の数は10万といわれており、広島原爆の14万人、東京大空襲の50万に比べ、戦闘員同士の戦闘だったことがよくわかります。

日本の時の海部内閣は、派兵は憲法を理由に断り、10億ドルの供与を約束し、総額130億ドルも支出しました。
内訳
・周辺3か国20億ドル、多国籍軍 10+10+90億ドル
・クエートへ 90億ドルの1/15、米:外全額
・クルド人支援 5億ドル の 139/140、米:外全額

クエートの感謝広告はドイツも同様に非共戦国ですが、ドイツは中央上段になりました。米国国防省のミスのようで、記念館には支援と機雷除去の話が日本の名前が感謝の言葉とともに乗っています。

日本はのちに海自をペルシア湾の機雷除去で派兵し、PKO法案を可決しました。

そして東日本大震災(2011)の時には、市民を含め1000億円の寄付金と500万バレルの無償提供をいただいています。

クウェートによる東日本大震災への支援|日本クウェイト協会 JAPAN-KUWAIT SOCIETY
http://jk-society.com/kujp4.html

※石油資源の安定供給という目的もあり、日本が停戦に向けて動けたことはよかったと思います。

21世紀

2003 イラク戦争

 フセインは温存で来た兵力でクルド人やシーア派を処刑しました。

アメリカは、化学兵器や大量破壊兵器保持を理由に開戦しましたが、それは間違いでした。それでもフセイン大統領は処刑されています。

2010 アラブの春、シリア内戦

インターネットの影響や、SNSにより、アラブの春により民主化の波が引き起りました。

それに伴い、シリアの内戦が勃発しました。

  • トルコ:クルド人の存在
  • スンニ派、シーア派の対立
  • トルコのアサド政権はシーア派:過去に圧制したことがある

ISISや原理主義が独立を求め戦いを繰り広げています。そしてそれにより多数の難民が、トルコからヨーロッパのへの流れついて社会問題になっています。

特別インタビュー 元国連難民高等弁務官・緒方貞子さん|国連UNHCR協会
https://www.japanforunhcr.org/archives/3833/

※クルド人も国を持たず、シリア、トルコ、イラン、イラクに分散しています。そしてISと戦っています。

  • シリア(アサド 政権) (シーア派) :ロシア、イラン(シーア派)、レバノンの武装組織ヒズボラ
  • 反政府: アメリカ 、欧米諸国 , アラブ諸国、サウジ(スンニ派)、 トルコ、 カタール
  • クルド人: アメリカ
  • IS

敵対
トルコ vs アサド政権 、 トルコ vs クルド人
サウジ、カタール vs イラン

イスラム教:
   シーア派 1割 (2億人)
(レバノン、オマーン、イエメン、パキスタン、バーレーン、アフガニスタン)
   スンニ派 9割

感想

国外も含めた統治、石油や交通利権、民族や宗教争いなどが起こっています。

まずは所有の問題が一つあるでしょう。もう一つは、宗教など別人だという考えから争いが起こっているようにも見えます。一体感を持とうとすると、境目が発生してしまいます。一体感を持たないと外圧に負けてしまいます。難しい問題です。しかし最終的にどう調和とればいいのかという考えを持たなければ、和平は進みません。手放すことで手に入れるものもあるかもしれませんから。

それに早く和平して、生産に切り替えたほうが豊かになると思います。お互い相手の分をすべて奪おうとするのではなく、自分たちで多めに作って分け合う方が生産的ではないでしょうか?

また、リビアやイラクの大統領を殺害したことにより、混乱が余計多くなっているように見えます。支那事変の時のように、平和維持といえど日本は巻き込まれないように注意深く意思をもって見守る必要があるかと思います。

今また、2020を迎え、イラン・ペルシア湾へも飛び火しそうな情勢です。

参考

wikipedia,googlemap

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