大東亜戦争と太平洋戦争 なににこだわっているの?


大東亜戦争は
東アジア全体をさします。

名称にある太平洋は太平洋全体を差します。
太平洋戦争は、ほかの戦争を表す言葉でもあるらしいので不正確です。
いうとしてもWWIIの太平洋戦線がアメリカ側に含まれているのであれば
それほどおかしくありません。が全体は表せていません。

結論

太平洋戦争という名をGHQが押し付け、日本がやったことはすべて悪だというようにして、それ以外の表記や、日本がやったことを表現すること厳しく検閲したから。

経緯

定義

閣議決定(’41/12/12)された名称であるため、日本国内では正しいです。

日本から見たら、東アジアでの
平和を維持する戦いなので
大東亜戦争なのです。

英米の歴史家も太平洋戦争という名称はふさわしくなく、大東亜戦争という名称などの使用(または交えた使用)を推奨しています。

時間的な面においても、
最終的には 1937年から大東亜戦争とするとしていますが
それを受け取ると見誤ります。

その前にも流れがあり、当時の認識がまたあるのです。
それぞれのおおきなきっかけ(3つほど)である、閣議決定する直前の状況に応じて名称を決めています。

これはただ、名前だけの問題ではなく、管轄の問題でもあるのです。
事変の時は、軍に依頼することもありますが外交官が中心になって対応します。
戦争の時は、軍がトップとなって対応します。

大東亜戦争(’41まで)

北支事変(’37)は中国北側での治安の乱れで
第2次上海事変は、南での蒋介石の戦闘行為です。
この上海事変時に北支事変から支那事変とひと塊として対応しました。

終盤では、激しい米英ソの邪魔があり、日本は資源の枯渇の恐れがありました。

※アメリカの宣戦布告からを大東亜戦争に切り替えています。

北支事変のとき日本は、通州事件が起きて日本字が大量に殺戮され、
国内が騒いでも早急に和平を蒋介石とで取り付けようとします。

和平のたびに大山中尉虐殺事件などが起こりますが、
日本は治安維持にとどめ戦争状態は回避しています。

しかし英米ソがドイツにおびえ、アメリカの参戦を望みます。
そして、蒋介石に降伏や和平をせず戦えというのです。
同様のことを欧州でも行い、ポーランドやフランスも強気に出てしまい、
国内はひどいことになります。

上海事変のときも、上海、南京、漢口(かんこう)、済南(せいなん)、広東などの制圧、治安維持と、
蒋介石の約束を取り付けようとします。
中国兵は残念ながらせん滅されていきます。

が長江(揚子江)をどんどん上流に逃げて重慶(じゅうけい)に引きこもり、一向につかまりません。日本に空爆し、治安維持していた部隊に一方的に攻撃したにもかかわらず、兵士や民を置いて逃げていきます。日本軍が悪いことをしないことをしっているようなものです。逃げる際に黄河決壊事件を起こし、100万人以上がなくなったといわれています。日本兵は河南省の人達と連携し、苦力(くーりー)も雇って、救出と復旧をして感謝されました。

そのたびに都市やその間で激しい略奪が進んでいくのです。
(日本兵が帳票はおいていくも、民家から取ることもあったし
記者が仏像を持って行った例もあるそうです。)

蒋介石の国民党が軍のように見えるかもしれませんが
所詮一派閥に過ぎません。

例えば戦国時代でいう、毛利家などと同じで、
毛利家と約束しても、関東のことを統制することなんてできません

硬直まで

上海事変の翌年には制圧したものの、
アメリカ軍が条約破棄したり、隔離政策したり、輸出規制を連発し、
あわせて 蒋介石に多額の資金や武器を提供します。
英ソも同様に蒋介石や共産党を支援します。

※中国共産党の毛沢東は重慶のさらに奥、北にある延安の高地に引きこもっていました。

この時点で、ソ連も、アメリカも中立違反ですし、
集団的自衛権を行使しているため、戦争状態に近いのです。

そのあと、フランスが降伏した後
三国同盟を経て、インドシナに許可を経て進駐します。
タイは日本にゴムなどの提供を申し出てくれました。

大東亜戦争の始まり

そのあと石油の全面禁輸。
ハルノートの最後通牒です。

中国の平和を乱そうとしていたのは、アメリカとイギリス、そしてソ連です。日本は侵略するつもりがあれば、山から包囲殲滅します。上海や山東省の居留民を守っていたからこのような制圧になったのです。

最後通牒も、経済制裁も、宣戦布告に相当するレベルです。
最後通牒もこれ以上議論する必要がない時をもって宣戦布告となるのは常識です。

フィリピンでの戦い

そのあとは、日本はフィリピンの制圧し、
マッカーサーは父の代からあった会社の地を逃げ
オーストラリアに逃げ I shall returnとマスコミに宣伝しました。

その恨みを戦後返そうとしていました。

フィリピンはもともとアメリカ軍基地があるところで
今もそうです。

この戦いで出てくるのがバターン島です。

フィリピンのメインの島、マニラの島の、マニラの西にある半島です
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%B3%E5%8D%8A%E5%B3%B6#/map/0

その基地ですでに兵站もなく、捕虜収容所を破壊し
大量の兵隊がいるため、やむなく長い道のりを歩いたのでした。

日本の幾度とない譲歩に対して、満洲の利権も認めず(フィリピンやグアム、ハワイを持つアメリカは)調整せず最後通牒を出したのはアメリカです。兵站が間に合っていないこと自体おかしいでしょう。

日本軍も少ないおかゆを分けたり、朝夕限定で更新したりしています。
日本兵は重い装備を持ち更新しており、軽装の一部のアメリカ兵が
すでに疲労やマラリアを患っていたために、怠慢とみられた人もいたのでしょう。

アメリカは5200人”全員が拷問で死んだ”と嘘を流しましたが、
7.6万人の 7割がたどり着き、米軍の死亡者は2300名と自ら発表し、それは2.6%です。
そのうち、ほとんどの死亡の原因は上記理由でしょう。
またフィリピン兵は逃げやすかったともいわれています。

日本兵13に対して、300の捕虜が投降した例もあり
死ぬリスクと危険合わせの中対応した部隊もあるのです。
マッカーサーが置いていったこの場合30倍近い兵の、軍糧(ぐんりょう)も用意できるわけがありません。

日本として残念ですが、処刑や暴行は上記の理由であったかもしれませんが
虐殺を大量に行うのであれば、そんなしんどい行進をするはずはありません。

禁輸や差し押さえを受けている日本に
5000人も拷問している余裕はありません。

そして、恨みを返そうとしたアメリカは
NHK “真相はかうだ” でそれを宣伝したのです。

戦後そのようなプロパガンダ宣伝があって、バターン行進を知っている人は多かったのですが

私の時代は知らなくて
自分はてっきり、日本兵が兵站ミスをして しかたなく歩いて、戦い以外で7,8割以上が飢餓等で死んだのかと 勘違いしていました。

戦争行為以外“でアメリカは東京大空襲で民間人55万人、広島原爆で14万人を
不必要に殺害したことさえも比べられません。だから南京についてアメリカもしつこく宣伝してくるのです。それでも慰安婦の根拠もまともなものがなく、虐殺例はほとんど見つけられなかったのです。

バターン死の行進 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%B3%E6%AD%BB%E3%81%AE%E8%A1%8C%E9%80%B2

大東亜戦争にもどします

このように、日本は本来
大東亜で戦争し、シンガポール、香港、オーストラリア、ハワイと
広い範囲で軍事基地を攻撃しました。

ちなみに

以前、日露戦争、第一次世界大戦後ロシアだけでなく、アメリカ・オーストラリアは、日本を警戒します。米英は’21の四ヵ国条約、’22ワシントン、’30ロンドン軍縮会議などでフィリピンや香港は軍拡しないといって、シンガポールやハワイで基地を作成しました。

日本は明治から、イギリスのフォローをしてきた自負があり
その分怒りが日露戦争後のように大きくなってしまったのです。
これで 日英の関係が終戦までこじれ、外交、政府、軍、メディア、市民で
バラバラになってしまいました。

日本の正当性のアピールの弱さ

大東亜戦争(’41~の範囲として)
戦略的には疑問がありますが、
平和維持軍をアピールするために数々の宣伝は うまくいかず、

アメリカの非人道的な行為に負けたのです。

まとめ

さきほどの逃げかえった行為 を隠すように、バターン行進をアメリカは広めたのでした。

そして、平和的な意図をなくすために
ポイントのずれな 太平洋戦争という名前を強く使うように推奨します。

守らなければ、放送や出版できなくなり
場合には、学者などは公職追放となります。

プレスコードにあるように、
強烈な世代間断裂と民族浄化をアメリカは目指しました。

プレスコード – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%89

長年、イスラムや騎馬民族に侵略されていた
ヨーロッパの悲哀やルサンチマンが
恐怖となって激しく日本人にも、はね勝ったようでした。

太平洋戦争にはそういう背景があるのです。

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