長篠城と設楽ヶ原の戦いについてのリアリティや心理面からの新・考察


長篠の戦い – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/長篠の戦い

経緯と状況

現状を把握するために、ふわふわしたイメージや映画やゲームで勘違いしてそうなところを整理してみたい。

鉄砲

鉄砲の数

武田も銃を信長以上に備えていたし、1000丁から3000丁へ、付け足し記載がされている。ちなみに鳶ヶ巣山(とびがすやま)への裏どりの軍に500丁をも足している。

鉄砲の性能

遠距離からバンバン打てるイメージがあるが、飛距離、連射性能、精度についても全く使い物にならない。飛距離は100mと言われているがおそらく5,60mぐらいが検討の範囲内だと思う。弓のほうが確実で飛距離も読める。

連射性も秒間300発なわけはなく、 1分間に1,2発。つまり、100mであれば甲冑を着て走り寄っても、30秒ぐらいで到達するのでラストサムライのオープニングに少し描かれているように、鉄砲は一発勝負の世界。アメリカの南北戦争のころと同じ。弾入れをミスしたらそれで終わりだし、落っことしたときの焦りは相当なもの。また隣で暴発したり、隣が打ち損じれば確実に2発目は打てないため、切り合いの準備が必要になってくる。

また弾は不格好な丸い球で、バドミントンの羽のようなものはついていないので、サッカーの無回転ボールのようにどこに飛んでいくのかわからない(鉄砲の指紋である線条痕(せんじょうこん)がない)。

明治のころまで日本の銃はそれぐらいの性能だったし、実際その後信長をはじめ、勝頼や家康でさえも鉄砲をメインとして活用していない

運用面

当時の設楽が原(したらがはら)はぬかるみであり、入れ代わり立ち代わりに4時間も撃ち続けられるわけもなく、武将に指示されても、実際壊滅状態になるまで突撃するバカはいない。武将も信頼を損なうので指示もしない。  それはゲームや映画の世界。

ハンニバルがローマの数万の軍隊を3回全滅させたように、崩壊状態になるのは包囲戦のとき。崩れたり逃げたところを包囲すると、壊滅状態になる。だから武将は周りを囲まれないように注意しながら戦う。

当時信玄の重臣たちは生まれてずーと戦いの中に身を置いていたので、それがわからないはずはなく、一緒に戦っていた無名のサムライたちもそれは理解していただろうと推測できる。

段撃ち

理由はわからないが実際火縄銃を試し打ちした現代の人が三段撃ちの可能性も否定している。火縄銃の技術精度が理由だと思われる。またぬかるみを考えて否定する人もいる。

ちなみに三弾撃ちも 江戸中期に流行ったの甫庵信長記にのみ書かれており、それの創作である可能性が高い。

鉄砲に光が当たりすぎているが、主要因ではないと思う。

人数

3.8万対1.2万は誇張が入っている可能性がある。信長公記は信長向けに、盛りや逆盛りが盛んにおこなわれている事実もあり(桶狭間の戦いなど)怪しい。戦場の設楽が原はせまく、数万もいるとは思えない。またおそらく当時1000万人強ぐらいの人口や関ヶ原の戦い(全国での動員30万前後)から考えると信長・家康の連合は多くて2万いくかどうかぐらいだと思う。兵力があったとしても東西南北や内部に兵力を割かざるを得ないため、それほど多くは考えにくい(信玄の貫目から100万石程度と言われている)。

地図

騎馬

武田騎馬隊というものは、戦闘に用いられていたか疑問があるし、当時の日本の馬は120cm前後のいまでいう道産子やポニー体系の足腰が丈夫な馬。乗って戦う場面もあったかと思うが、常に乗って戦っていたとは思えない。明治の近代でも馬の強みは機動力であって、圧倒的に守備力がない(馬を攻撃すると簡単に倒れる)ため使う場面はほぼなく、日本の日露戦争でも広瀬が当時1,2位と言われていたコサック部隊を”籠って機関銃で削る”新戦術で打ち破っている。

勝頼の器

勝頼が無能なことはありえない。大体リアリティの無い創作者が面白おかしく作った後に発生した矛盾を強引にまとめるときに使うやり方にすぎない。負けたから愚将なのはわかるが、最初から愚将ではあそこまで将や民はついてこないし、信玄よりも領地を広げるなんて戦国末期の時代に無能では無理。

現代の人は権力人をしたがわせる間隔を持っている人が多いのかもしれないが、当時も結局はまとめあげる能力、現実を見極める能力があるかどうかで人はついていく。しかも当時は命に直結していたので、家の存続をかけて判断していた。

信長や甲陽軍鑑では、強すぎる武将として警戒している。

経緯

1571年10月 北条氏康
1572年9月 (収穫後?)三河侵攻、12月三方ヶ原の戦い
1573年5月 信玄死亡
1573年7月 室町幕府滅亡
1573年8月 奥平が離反、朝倉自刃
1573年9月 朝倉親子自害
1574年2月 明智城を武田は攻め落とす。
1574年6月 高天神城を武田は攻め落とす。支援要請に応えなかった信長に家康は激怒し、信長は家康に詫びを入れている。

このように信長はおもに西側に向けて整備をしており、武田側には及び腰であり、家康はお家存亡の窮地に陥っている。

1575年
4月22日三河侵攻
5月  8日  勝頼、医王寺山(いおうじやま)に本陣を置く
5月12日 信長出陣、14日岡崎、16日牛久保城
5月17日 野田で信長と家康合流
5月18日 設楽ヶ原で連合軍布陣
5月19日勝頼会議し、滝川を渡河し布陣
5月21日 開戦 数時間後撤退。

信長と家康の動きを見ると、14日以降に動き出したのではなく、
何かしらの計画的な動きに見える。

戦場

nagashinoBattle

地形・天候

長篠城は南と西は川に囲まれ、北側の陸地は堀を掘っていた。

長篠城の西では、丘下の滝川を超えて設楽ヶ原があり、さらに西の連吾川の奥に馬防柵を築いたと思われる(実際どれほど築いたか不明)。
南には豊川が東から西に流れている。

前日など雨が降り、朝方は霧も発生したという記述もあったそうだ。

布陣と戦闘について

信長側(山側:今は山だが当時は単なる丘だった可能性もある)に布陣していた。乗り気でなかった信長に、これは家康が徹底抗戦して併撃するので、柵と堀で防いでくれればいいという約束をしていたのかもしれない。

酒井忠次が長篠城を救出し、武田家は併撃された。
ジワリと武田方の戦力が削られていった。併外記の恐怖とぬかるみで、闘いにくかったはず。そこに窮地に陥った徳川家として、家康の執拗なちょっかいのヒットアンドアウェイ戦法に、武田方は釘付けになり、長篠城にも向かえず、その場からうまく退くこともできなかった可能性がある。

可能性の高いこと

連合側は武田側に兵数を少ないと見せていた。信長の兵数を把握できていない(把握できていないことは共有していた可能性がある)

5月8日の時点で丘の下でも包囲していた。つまり設楽ヶ原の状況は多少抑えていたはず。なぜ有利そうな場所が確保できなかったのかがすごい疑問。

次に可能性の高いこと

  • 馬房柵の準備をしていた。
  • 鉄砲を活用していた。
  • 長篠城を包囲していた信実の兵は雑兵で弱かった。
  • 馬房策はぬかるみのある徳川、一益の前にあった(信長公記)
  • 家康は背水の陣の覚悟で食らい付き、武田勢を留まらせた。
    (上記で記載)

疑問点

なぜ酒井忠次は裏をとれたか。

あまりにも武田側は無警戒過ぎる。周りの状況を把握できずに索敵した兵士が返ってこない場合、突っ込間いないのがセオリ―。

無理に攻めた理由

そもそのこの戦闘の目的として、長篠城を落とせば良く、家康にとっては東側一帯を放棄せざるを得なくなるほどの大打撃になる。だから武田側は無理に攻める必要はない。連合側が攻めてこないのであれば、長篠城が落ちるまで待っていればいい。

不利な地での戦い

みすみす馬防柵を作らせる時間を取ったこと。そこに突撃すること。これらについて強い疑問が残る。
人数差がある中で、馬防柵に突っ込むのはありえない。

また、合議のタイミングが19日では遅すぎる。14日ごろに情報を入手していてもおかしくはなく、16日にはすでに入手していただろうと思う。
そして、滝川を渡るタイミングが遅すぎる。馬防柵や堀を構築中に攻めてればいい。
(それとも前年に予期していた家康達が決戦の場をここと決め準備していた可能性がある。高確率でおびき寄せる算段と、その時に打ち破る策を考えていた)
これらを考えると、勝頼は設楽ヶ原に布陣せざるを得ない状況に陥り、信長たちは油断させる策(柵)や執拗にからんで削る戦法を少しでも成功するようにしたと思う。

勝因と敗因

これで終わっては何なので、
(上でも少し推測を入れたが)
歴史は素人だが、ざっくり心理面なども含めて推測してみる。

失敗その1:世代交代に失敗

諏訪方の勝頼派と信玄側の融合がうまく進んでいなかった可能性がある。それにより分裂が起こり、無茶なことをして注意を惹くようになるし、意見が通らない理由は妥当性ではなく贔屓と見られた可能性もある。分裂した組織は強い時は方向性が変わらないからよいけれども、ピンチになった時コミュニケーションが取れなく変化に弱くなる。

軍議が遅かったのではなく、まとまらなかった理由の一つとして説明がつく。

また、旧武田家臣が無茶を言って結局進軍することになった可能性があり、それで馬場信房はしんがりを引き受けたのかもしれない。そうだと仮定すると、逆に勝頼の人柄は一部の武将にはどちらについても中立的に、それなりに信用されていたことがうかがわれる。

甲陽軍鑑の記載は信玄が亡くなった後、記載が怪しい。諏訪派(勝手に名称作った)への恨みや不満からそういう記載になったのではないかと思う。武田勝頼のため最後まで戦った武将たちのせいで武田が滅んだような思い込みとも思われる記載になった可能性もある。

失敗その2:地の利

そもそも設楽が原は徳川の領地。家康の配下に詳しいものがいてもおかしくない。

甲陽軍鑑の記載からも足場の弱い南側(武田の左翼)は連合側に到達し、攻め立てている。時間も明るくなって日が没するぐらいまでだったらしいので、そのため一瞬で決まるようなはっきりし戦いではないと推測できる。
一方信長のほうは、武田側は誘い込まれ、撃たれたとあるが、おそらく鉄砲による打撃は伝聞による誇張で足場の悪い武田側が体力を削られ、足場を確保し柵と堀で優位に立った信長側が北側から挟み込んだと思われる。

長篠の上は狭く大きな布陣ができず設楽ヶ原に展開する可能性が高い。しない場合は囲まれるので。
だが、鳶ヶ巣山に布陣せず飛び出した割に簡単に裏を取られた理由がわからない。また長篠城を包囲しているから地形のぬかるみなどは気づいていたはず。

裏どりを気にして、攻撃するにしても、信長組みやすしとして攻撃に出たとしても、動きがちんたらしすぎている。 裏どりに気づいているのであれば裏どり班を急襲して戦えば勝機はあったはず。

また信長側の情報が入ってこない場合深追いしないのがセオリー。なのに崖下かつ川を背にするのは風林火山の旗のある武田が孫氏を理解していないはずがないため不自然さがある。

失敗その3:近江の経済流通による打撃

信玄の頃から琵琶湖のほとり(近江ののちの安土城付近)の経済を抑えたことによる、ジリ貧。
影響は大きくないが、海のない武田にはじわりじわりと効いて、武田信玄の焦りや勝頼の焦りにつながっていた可能性もある。

1番目が一番重要だとみている。実際、信長も秀吉も、家康ののちの徳川もこのまとまりがなくなって崩壊しているというしごく当たり前な結論にたどり着いた。

まとめ

原因は、武田家のまとまりが低下した時に、家康の必死の攻撃武田の体力を削り、それに柔軟に対応できなかった武田が併撃を受け、大打撃を追ったのではないのか、というつまらない結論。

 

その他判断に影響しそうなこと

織田信長が、酒井忠次に指示したということ。

信長が家康の部下に直接指示することは違和感が強すぎる。普通はそんな可能性はない。信長公記の記載内容だが、 信長の凄さを言いたかった可能性がある。

伝令の遅さやエピソード

5月8日に伝令すればいいのだが、5月14日伝令する意図が不明。捕まったエピソードも劇のようなもので、創作の可能性がある。500人で守れるかどうかの判断は今回のケースでは簡単だろうと思う。人の心を揺り動かしそうな内容だから広まりやすい。勝頼からしたら、わざわざ伝令に長篠城へ向けて磔のまましゃべらすわけがない。事実よりも話題性を重視したような小説家っぽいストーリ。

文章の妥当性

信長公記より後に書かれ有名になった信長記

儒学者の小瀬甫庵(おぜほあん)は、太閤記も信長記(しんちょうき)も太田牛一の内容が足りないと言って江戸時代に作ったもの。時間も経ち、年齢も重ねていることから面白い創作と思われる部分がたくさんある。甫庵信長記は、自信を売り出すためかまってほしくて書いた可能性も記憶違いも十分にあり得る。桶狭間を奇襲と書いたり、墨俣一夜城や長篠での三段撃ちなど初めて書いている。牛一でさえ現場にいてリアルタイムに書いたかさえも怪しく、そしてそもそも記憶というのは丸まって変化していくもの。しかも甫庵は1575年は11歳のころ。

甲陽軍鑑

こちらも、もともと信ぴょう性が薄いと思われていたもの。
おそらく信玄の時代の終わり頃複数の人によって書かれていたと思う。そのため初期のころの記載は時代のずれやイベントの違いが大きい。

また一概に甲陽軍鑑と言っても元の本と、写経した本と、江戸時代一気に取捨選択して書いた本があり、普及したのは江戸時代に流行った甲陽軍鑑であり、武田の戦略家として売り出すためにまとめた本だ。そのため今のテレビみたいに面白かったり実力をアピールするために編纂された可能性があり、学者の中ではこの本があるため、江戸時代の創作であるという評価もされ、長い間信頼を得られていなかった。

連想出版がつくるWEBマガジン[KAZE]風
http://kaze.shinshomap.info/series/kansuke/02.html

屏風絵(浮世絵)

長篠の戦の浮世絵はしばらく後の作品。大体戦国時代で人気のあった内容は、江戸時代の文化の時におもしろくて広がった可能性が高い。この絵も江戸時代のもの(江戸初期であればぎりぎり生きていた可能性はある)
戦場を見た絵師かどうかは不明。見るとわかるが、大きさや全体像など、物語のようで、GoogleMapで見るのと全く違う。

歴史書リンク

信長公記巻八
http://home.att.ne.jp/sky/kakiti/shincho11.html

信長公記(原文)
http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/kouki.html

甲陽軍艦 品第五十二 … 長篠の戦い(2) 馬場美濃守の活躍と逝去 ( 歴史 ) – 新!サブやんの気まぐれ調査研究 – Yahoo!ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/hakusyunetto2009/15331376.html

甲陽軍鑑 1 跡部勝資と長坂光堅: 天目山の戦いについて
http://tenmokuzan.seesaa.net/article/443173991.html

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